【アメリカと日本茶】その1

みなさん、お久しぶりです。平成29年1月、アメリカ大統領にドナルドトランプが就任し、矢継ぎ早に次々色々な大統領令を発しています。永くは持たない、また持ってほしくない大統領だと思いますが、米国民の半数が彼を支持していることに、アメリカの苦悩が感じられます。今回は「アメリカと日本茶」と題してお話しさせていただきます。

1.日本茶業はペリーによって始まった。
「日本茶業はペリーによって始まった。」「日本茶業が、今日あるのはアメリカのおかげです。」というと、みなさん驚かれるでしょうか?


ア、ペリー以前の日本茶業。
江戸時代の1600年代、1700年代にお茶で生計を立てている、即ちお茶を生業として生活できる、即ち茶業を営んでいる人は日本の中で宇治と宇治周辺のごく一部の人々でした。

商品として主に流通していたのはお抹茶の原料である薄葉(うすは)で、その消費者は全国にニ百数十家あった大名、武士と朝廷、公家と大きな寺社でした。人口の大多数を占める「農、工、商」の人々にとって、お茶は買うものではなく、自分で作って飲むものでした。

全国各地には様々な自家用の番茶がつくられていました。元文三年(1738年)に宇治田原湯屋谷の永谷宗円がそれまでの番茶や黒製(釜炒り製)に変わる宇治製(青製)を創製します。
しかし、すぐに全国のお茶が宇治製煎茶に変わったのではなく、宇治製法の煎茶は宗円の時代からペリー来航の時代まで、100年以上をかけて全国に伝わって行きました。

江戸時代の1800年代になると三都(江戸、京都、大坂)をはじめ全国の地方都市でも茶が商われるようになってきます。その時代の「引き札」(ひきふだ=定価表)を見ると、ほとんどの引札には「宇治、信楽、諸国、御茶所」と書かれています。
足久保(静岡)や菰野(伊勢)や日向(宮崎)の茶も販売されていますがそれらのお茶銘は少なく、ほとんど宇治のお茶が販売されていたのがわかります。