みなさん、お久しぶりです。平成29年トランプ大統領が就任したした時に、「アメリカと日本茶」という題名で4回連載しました。
内容は「ア、ペリー以前の日本茶業」「イ、泰平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)、たった四杯で夜も寝られず。」「ウ、宇治製法」「エ、揉切り法(もみきりほう)と転繰り法(でんぐりほう)」でした。今回はその続きを書かせていただきます。
1.日本茶業はペリーによって始まった。
オ、アメリカでの日本緑茶
安政6年(1859年)より始まった日本茶輸出は、日本で生産されるお茶の約4分の3、明治時代の平均で約2万トンが輸出されています。
日本の茶産業はアメリカによって育てられました。その輸出された日本茶はアメリカでどのように消費されていたのでしょうか?日本の常識では煎茶は、急須や土瓶に茶の葉を入れ、お湯を注いでお茶を浸出します。
揉まれていない番茶以外、煮出すことはありません。アメリカでの日本茶の飲み方は、ポットに茶葉と水を入れ、火にかけて濃い液体になるまで煮だします。それに砂糖、ミルクを加えて飲んでいました。ほとんどコーヒーと同じ飲み方です。
日本茶を輸出しましたが、日本茶を淹れる道具である急須、土瓶は一緒に輸出されていません。そもそも浦賀に来たペリーが言ったのは、「日本にはコーヒーに変わる飲み物はあるか?」という言葉でした。アメリカにおいて日本茶が飲まれていた地域は、サンフランシスコなど西海岸、シカゴ付近、ニューヨークなど東海岸などのごく限られた地域でした。
明治27年のアメリカに於ける嗜好飲料のコーヒーと茶の輸入金額を比べてみると、コーヒーが8000万ドル(86%)に対して、茶は1300万ドル(14%)です。茶の内日本茶は296万ドル(3%)でコーヒーの27分の1です。日本に於いて非常に大きい地位を占めていた日本茶輸出ですが、アメリカでは嗜好飲料のごく一部であった事が分かります。