【アメリカと日本茶】その8

1.日本茶業はペリーによって始まった。

ク、手揉製茶から機械製茶へその2
日本の緑茶製造が手揉製茶から機械製茶へ移行するうえで一番大きな契機になったのは、第1次世界大戦(大正3年、1914年~)でした。日本では日露戦争(明治37年、1904年~)以降、諸物価、労働賃金が高騰し、手揉製茶から機械製茶への移行が始まりました。米国への茶輸出もインド、セイロン紅茶の進出で減少する一方でした。第1次世界大戦が起こるとインド、セイロン紅茶と中国緑茶の米国への輸送が困難になり、それまで減少一方であった日本茶の輸出が急増します。

大正6年(1917年)には開港以来最高の輸出数量を記録し、日本茶業は好景気に沸きました。
しかし、第1次世界大戦が大正7年に停戦し、インド、セイロンの紅茶が米国に輸送されるようになると日本茶は紅茶に押され、大正10年には日本茶の輸出は4年前のほぼ4分の1の数量に激減してしまいました。

輸出減少で余った静岡、三重の茶は、大正10年以降宇治茶の独壇場だった国内市場になだれ込みます。静岡では第1次世界大戦の間、輸出激増で茶生産家も茶業者も非常に潤いました。この儲けた資金のおかげで高価な製茶機械を購入する事が可能になり、製茶の機械化が一気に進み、大正9年の静岡では製茶の65%が全機械製になりました。

京都の機械化は静岡に大きく遅れます。
その理由の第1は、京都の製茶は国内向けで、高品質高価格であった事。
第2に製茶機械は静岡製が多く、京都の茶業に合わない機械が多かった事。
第3に機械が高価だった事などです。大正9年の京都では15%が全機械製です。

(8回、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。続きは次回に回します。)