【アメリカと日本茶】その14

セ、「宇治製法と宇治茶その2」
前回の13回で、『形状は真直ぐではないが「風味(香味)本位」であった宇治茶を「形状本位」の宇治茶に改良(改悪)しようとする萌芽は明治27年頃に生まれた』ことが分かりました。

その10年後の明治37年10月21日(1904年)の「日出新聞」には、「一府三県茶業組合聯合協議会…京都、滋賀、奈良、三重一府三県の茶業組合連合協議会が新京極受楽亭において開会せり。(三)従来板揉みと称する製造を廃止すること。が原案に可決せり。」と云う記事があります。
と云う事は京都を初め滋賀、奈良、三重県に於て、明治37年当時、仕上揉みの「板揉み」即ち「板摺(いたずり)」が行われていた事が分かります。

明治27年頃より推進された宇治茶を形状本位に改良(改悪)する動きは、「板揉み=板摺(いたずり)」の導入と云う形で行われていた事が分かります。
令和2年の現在、全国にある「手揉保存会」で「板摺」を行っているのは京都府だけです。そのために、「板摺」は京都府で創始された京都府独自の手揉技術であると思っている人も少なくないようです。
しかし、京都府茶業研究所の初代所長であった田辺貢が昭和9年に著した「茶樹栽培及び製茶法」に「板摺は宇治地方にても盛んにして殆んど仕上は之に依るも、元は三重県水澤に起こりたるものなり。」と書かれているように、「板摺」の発祥は三重県の水澤村であるのが分かります。「板摺」の前身は「炉縁揉み」です。
「揉み板」が考案される以前は、木枠助炭の縁(炉縁)を利用して茶を両手と木枠の縁で揉みました。木枠助炭の縁が垂直に近く揉みにくいので揉み板が考案されました。明治37年(1904年)に一府三県茶業組合聯合協議会(現在の関西茶業協会の前身)が当時流行りつつあった「形状本位」の「板揉み」を廃止する決定をしています。廃止の理由は書かれていませんが、「宇治茶は風味本位」であるべきだと云う考えがあったものと思われます。

令和2年12月