【アメリカと日本茶】その15

ソ、「宇治製法と宇治茶その3」
明治40年(1907年)頃より静岡県は静岡の製茶向上の為に手揉製茶の先進地である滋賀県政所、朝宮、京都府池尾、宇治などに茶業視察者を派遣します。その報告により、当時の京都府の製茶が判明します。「茶業界」第6巻第5号(明治44年、1911年)
「関西紀行…京都府池の尾」鈴木孫太郎、岩田文吉によると「池の尾は戸数二十戸、茶の産額約五千貫(約19トン)茶園約十町歩、南北に亘る谷にして、船底の如き形をなし、南に低く北は高し。茶畑は山腹傾斜地にあり。△摘採…一番茶は五月十二、三日頃、二番茶はそれより三十日位後なる由。△肥料…肥料は油粕と人糞なり。布草は一反歩六円五十銭位にて請負とす。△製法…製法は一焙炉に生葉一貫目を入れ、一日六杯づつ揉むなり。昔は揉切一方なりしが、近来揉切は骨が折れる為職人が之を厭い、今にては板ゴスリなどなすもの多く、楽をして形を造ると云う傾になりたり云々。」と池の尾にまで板コスリなどが入り、楽をして形を造る製法になっていることが分かります。

「茶業界」第7巻第4号(明治45年、1912年)「京都府茶業視察録」牧之原茶業部 浅羽光次郎「木幡桑原善助氏…製造上注意すべき事項、製茶の乾上り歩合は二割とするも廻転揉の方法拙なければ一割六分に終わる。又廻転に際し早めに力を加えること酷なれば、歩上げを損し、鮮緑を失し、味を害す。碾茶法、室内に14個の焙炉を用意し、内2個の上火炉を備え、室内の温度は130度とし、四人にて二人宛六人代に休息を為し、生葉を乾かすこと七貫匁より多きは12貫匁に達す。」「宇治辻利兵衛氏…明治8年、武力壺を発明したる人にして、宇治製造法は変遷説に徳川13代の頃までは挽茶のみなりしが、明治初年となり玉露製さかんとなり、一貫目の価格2円乃至3円なりし。その後5年を経て価格は5円に高騰す。その後煎茶製造法は純揉切製にして、床揉を交えて製造せり。その後明治20年より回転揉を行うに至るとあり。」とこの当時宇治では回転揉み(横まくり)が行われていたことが分かります。
宇治に於いて玉露製がさかんとなったのは明治初年です。煎茶製造は純揉切製ですが、床揉を交えています。宇治に回転揉が入ってきたのは明治20年だった事が分かります。

令和3年1月