(60)「世界大戦後の品質悪化」「静岡県茶業史続編」34p~36p
(大正10年、1921年)
大正10年茶輸出数量は激減します。摘採鋏と製茶機械の根本的改造が必要です。
(61)「輸出から内地へ」「静岡県茶業史続編」275p(大正10年、1921年)
静岡県は大正10年頃より海外輸出の不振から内地向きへ舵を切りました。
(62)「機械製茶の増加」「静岡県茶業史続編」284p(大正10年、1921年)
大正10年は機械製58%、半機械製23%に対して、純手揉製19%でした。
(63)「内地ダンピング」「静岡県茶業史続編」286p(大正10年、1921年)
米国輸出が激減した静岡はその茶をダンピングして内地市場に食い込みを計ります。
(64)「茶業現況宣伝」静岡県茶業組合聯合会議所「茶業界」第16巻第3号
(大正10年、1921年)
大正10年、静岡茶業は危機でした。静岡県茶業組合連合会は危機突破の為にハガキと宣伝ビラを配布しました。その内容は「生産家は若芽摘、商人は性を買え」「揉捻機は十分以内、精揉機も努めて短く」「下茶を造って儲ける人は茶業を滅ぼす敵と知れ。」というものでした。
(65)「製茶機械改造期臻る」主筆 瀧閑村「茶業界」第16巻第5号
(大正10年、1921年)
現在の機械は品質よりは其製造量にのみ重きをおいた機械であるから、根本的には品質本位の新たな機械を考案製作する必要がある。
(66)「製茶機械革新に就いて…蒸と製茶機械」TK生(小泉武雄)「茶業界」第16巻第5号
(大正10年、1921年)
少し黄色を帯びる迄蒸を行えば香気は良いが形状を落す、之に反して若蒸なれば形状は保つが青臭みを帯びた茶が出来る。機械製茶では蒸を完全にしなければ青臭味がぬけません。
(67)「製茶機械革新に就いて…粗揉機」TK生(小泉武雄)「茶業界」第16巻第5号
(大正10年、1921年)
粗揉機に於ては、葉その物に捻れる力のある物のみが捻れ、捻れる力のない硬葉や萎凋した葉などは捻れません。
(68)「製茶機械革新に就いて…揉捻機」TK生(小泉武雄)「茶業界」第16巻第5号
(大正10年、1921年)
理想としては、熱を与えてもその熱のこもらぬように揉捻されるものでなければなりません。TK生は揉捻機の如きは之を撤廃して、寧ろ葉打と揉捻と一所の操作をなして揉切をなす、所謂中揉み的粗揉機の出現を要求しています。
(69)「製茶機械革新に就いて…精揉機」TK生(小泉武雄)「茶業界」第16巻第5号
(大正10年、1921年)
今日の精揉機は正しく只茶を緊捻すると云う一点にのみ重きを置かれたもので、何人が如何に使用しても必ず相当の形状は出来るが、一本一本に茶が転動する理合の少ない事が大なる欠点です。機械臭=鬱臭の除去が大問題です。
(70)「良茶を製するには」鈴木孫太郎「茶業界」第16巻第5号
(大正10年、1921年)
日本茶を向上せしむる唯一の基礎は、「良い葉を無理に揉まぬ」ことです。
(71)「今年の製茶方針」川崎正一「京都茶業界」第3巻第2号(大正10年、1921年)
京都は品本主義(品質本位主義)、即ち香味を以て戦いましょうと云っています。
(72)「今年(大正10年)の製茶方針」川崎正一「京都茶業界」第3巻第2号
(大正10年、1921年)
…大正10年の京都府製茶方針は、内地の嗜好に適する香味本位の飲みの良い茶を作る必要がある。機械製茶の改善については、(1)精揉機及揉捻機は品質を損するを以てなるべく之を使用せざること。(2)止む無く精揉機を使用する場合は、其の時間を短く、製茶の香味を失わざる程度にし、最後に手揉仕上を行い、又は乾燥によって其の足らざる点を補足すること。(3)機械の善用を期し、品質の向上に努めること。の三つの注意が必要です。川崎正一は『茶は飲料で美術品ではありません。香味の良い茶が売手にも買手にも真に利益であります。』と云っています。
(73)「茶業に関する新研究又は新説」(静岡土産の数々)産業技師川崎正一「京都茶業界」第3巻第2号
(大正10年、1921年)
牧之原茶業部の久保田技手は香味本位の製茶研究で、粗揉機を十分よく使用し、又再乾を普通よりよく行って、精揉機を若上げ(精揉機を十分か十五分で終わる)する製茶の研究をしています。
(74)「本年の茶況と内外販路拡張の必要」瀧閑村「茶業界」第16巻第8号
(大正10年、1921年)
日本茶輸出不振は(一)印度、錫蘭、爪哇の製茶に比し、価格著しく高価なる事。(二)公告に豪も意を用いざる事。(三)品質の等級多きに過ぎ、貯蔵し難く、包装、飲用法等に意を用いず、需用者に不親切なる事。等に依る。静岡県は輸出を主とし、内地を従としたので、製造方法も販路拡張も輸出を主として発達してきました。静岡県は本年の如く多額の需要が内地にある事を予測しなかった。静岡茶の内地移出が増加しましたが、静岡茶としては販売されず、宇治茶狭山茶の名で販売されています。
(75)「今後の茶況如何」小泉武雄「茶業界」第16巻第8号(大正10年、1921年)
大正10年、静岡茶の輸出は激減し、内地移出は激増しています。