お茶の元祖物語

茶業の歴史を調べていると分からないことだらけで困ってしまう。
そのなかで、今回は色々な「元祖」について調べてみた。調査が不充分であったり、史実と違っているものがあるかも知れない。
読者の皆様のご批判、ご指摘をお待ちしています。

桑原 秀樹


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元祖 人物等 年代 備考
1 覆い 不明 安土桃山
時代以前
2 発色茶 長井貞信 1614年
慶長末年
宇治茶師
3 煎茶
(宇治製)
永谷宗圓 1738年
元文3年
綴喜郡宇治田原村
4 玉露 山本嘉兵衛徳翁 1835
天保6年
久世郡小倉村
5 茶利用食品 菓舗堀井
「喜撰糖」
江戸後半 久世郡宇治郷
6 製茶機械 高林謙三 1885年
明治18年
埼玉県
7 缶櫃 辻利右衛門 1892年
明治25年
(世郡宇治郷)
渡邊辰三郎(京都市)
8 通信販売 古川専太郎 1892年
明治25年
綴喜郡草内村
9 茎焙じ茶 林屋新兵衛 1902年
明治35年
宇治郡宇治村
10 抹茶加工品 米沢茶店 1902年
明治35年
金沢市
11 茶挽機械 中村藤吉 1912年
明治45年
(久世郡宇治郷)
升半茶店(名古屋市)
12 粉末茶
缶詰茶
林屋新兵衛 1920年
大正9年
宇治郡宇治村
13 固形茶 林屋新兵衛 1920年
大正9年
宇治郡宇治村
14 玄米茶 堀井喜四郎 1923年
大正12年
綴喜郡青谷村
15 碾茶機械 堀井長次郎 1924年
大正13年
久世郡宇治町
16 茶冷蔵庫 小山政次郎 1928年
昭和3年
久世郡小倉村
17 冷凍茶
(万年新茶)
小山政次郎 1930年
昭和5年
久世郡小倉村
18 茶撰機 服部善一 1935年
昭和10年
久世郡白川村
19 深蒸し茶 小松喜三次 1952年
昭和27年
菊川町
20 味付け茶 不明
21 着色茶 不明
22 モガ茶 京都府茶研 1933年
昭和8年
久世郡宇治町

 

解説


(1)覆いの元祖……不明(安土桃山時代以前)
茶園に覆いをするという事は茶の新芽を霜の害から守る目的で始められたのであるが、それは抹茶の品質面において革命的な改良をもたらした。覆下茶園の新芽で製造した抹茶はそれまでの露天園の抹茶とは比べ物にならないくらい美しく美味しい良質な抹茶であった。
この覆いの元祖は誰かについては諸説がある。明治7年、加藤影孝著の「茶説集成」には、「元亀年中(1570~73)ニ至リ、茶師上林味卜ヲ初メトシテ、三十三人工夫ヲ凝ラシ、焙炉製ノ術ヲ発明シ、茶園ニ霜雪ヲ防グノ屋室ヲ作リ、濃茶、薄茶ヲ別段ニ製造セリ。」とあり、又上林家の上林久重(1589没)によるという説と小堀遠州(1647没)によるという説もある。しかし、ロドリゲスの「日本教会史」によれば、天正年間(1573~1591)から慶長年間に宇治においては覆下の技法が一般化していたことが分かる。
よって、上林久重や小堀遠州は元祖ではありえない。覆いの元祖は、16世紀前半から中ごろにかけての宇治の多くの茶生産家であろう。

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(2)発色茶の元祖……長井貞信(慶長末年、1614)(宇治茶師)
「昔と白の茶」(京都府茶業百年史、平成6年、545p~548p)
「初昔・後昔は小堀遠州が命銘した茶銘であると伝えられ、「上林家前代記録」が、「むかし色白キヲ専(もっぱら)トシ、中比(なかごろ)ハ白青キヲ専トシ、其後又色白キヲ専ト仕候、夫故(それゆえ)最初之昔ト申心ヲ以、初昔ト付ケ、初昔ニ少(すこし)風儀替リたるヲ後昔ト付候事。」と記しているように、製茶工程の相違によって生じた白と青の二種の碾茶に、それぞれ初昔、後昔と命銘したのである。
したがって「昔」の文字は、伝統に則した昔ながらの製法によってつくられた茶という意味を持っていることになる。白と青の製法上の相違については、近世における茶の摘採時期がきわめて早期であったことと大いに関係がある。
早く摘採した茶の芽は、言うまでもなく若くて小さい。その小さい芽によって製造された碾茶は色が白い。そのために宇治茶師長井貞信が灰汁に浸す湯引き製法を発見して、アントキアンを発色させ、青味を増すことができた。これが「青」である。その時期は慶長の末年(1614)のころ、古田織部の晩年のことであったという。」

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(3)煎茶(宇治製)の元祖……永谷宗圓(1738、元文3年)(綴喜郡宇治田原村)
宇治製(青製)煎茶は山城国綴喜郡宇治田原村湯屋谷の永谷宗圓(宗七郎)が元文三年(1738)に創製した。

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(4)玉露の元祖……山本嘉兵衛徳翁(1835、天保6年)(久世郡小倉村)
玉露の起源については諸説ある。「宇治郡誌」には、宇治郡木幡村の茶師上坂清一が、天保5年(1834)に煎茶宗匠小川可進の依頼によって精製したと記され、また明治7年刊の「茶園栽培問答」には木幡村の一ノ瀬某、上林春松家の「共進会出品添付書」には大鳳寺村の茶師宮林有斎と春松の共作、また上林柏堂の「玉露の沿革」には天保元年(1830)に松林長兵衛(陶工朝日焼)の創製という説もある。しかし、天保六年(1835)、久世郡小倉村の木下吉左衛門の焙炉場において、山本嘉兵衛徳翁が創製したという説が最も有名である。
玉露は当初「玉の露」と名付けられたことから分かるように、その形は丸い玉のような形状であった。その形状を現在の玉露のように改良したのは宇治の辻利右衛門であった。

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(5)茶利用食品の元祖……菓舗堀井「喜撰糖」(江戸後半)
「新製品の創案…銘菓喜撰糖」(京都府茶業百年史、平成6年、606p)
「江戸時代の後半に宇治橋の西方宇治新町に店舗を構えていた菓舗堀井氏が、米粉に抹茶を加味した打物菓子を創製して、これを「喜撰糖」と命名している。これが茶を利用した食品の祖をなすものと考えられる。」

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(6)製茶機械の元祖……高林謙三(1885、明治18年)(埼玉県)
埼玉県の高林謙三の発明した高林式焙茶器、茶葉蒸機、製茶摩擦器械は、明治18年(1885)に特許第2号、第3号、第4号として発表された。

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(7)缶櫃(かんびつ)の元祖……辻利右衛門(1892、明治25年)(久世郡宇治郷)渡邊辰三郎(1892、明治25年)(京都市)
「辻翁の缶櫃発明」(辻利右衛門翁、上林楢道、昭和8年、41p)
「内地販路の拡張に伴い、製茶の運送貯蔵に当たって、従来使用せられた陶器製の茶壺が甚だしく不便不自由なるを痛感した。その上当時一貫目程度の製茶を入れたる缶が、茶壺よりも運送貯蔵に便宜なるを知れる翁は、古来の茶櫃の内部に錻力板を張った缶櫃を案出し、防湿と共に運搬取扱の上に便利を図ったことは、茶業界の一大発見である。於是、全国の同業者も次第に之に倣い、輸出たると内地向きたるとを問わず、一様に此の缶櫃を使用するに至った。」
「天狗さん巡り、其二、茶櫃の天狗さん」(螢鳴生、京都茶業界、大正9年)
「何百年という以前から使用されている茶壺はたとえ運搬に不便であっても、砕けるにしても、品質が変わっても、其れを用いなければならぬ規則でもあるかのように依然として土製の茶壺に入れて輸送せられていた。渡邊辰三郎氏は明治25年の或る日、宇治の大生産家辻市郎右衛門氏から『此の不便な茶壺の代用品を発明して戴いたら』と聞いて以来、之が代用容器の研究に没頭し始めた。……氏の所へ東京の親類から錻力缶入りの海苔が到着した。錻力缶に模して各種の容器を作成して製茶の貯蔵と運搬との試験を試みた。其の研究の結果は、木箱の内面に錻力を張ったものが最も良成績であった。そうして此れを一般に奨めた。運搬に便利で然も破壊の恐れなく、製茶の品質に少しも変化を来さない所の完全無欠な茶櫃は、今や山城製茶業者のみならず全国各地当業者が使用するに至った。氏の与えたる利益や実に偉大なものであると云わねばならぬ。」
茶櫃(缶櫃)の発明も玉露の発明と同じように、辻利右衛門と渡邊辰三郎がほぼ同時に発明している。

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(8)通信販売の元祖……古川専太郎(1892、明治25年)(綴喜郡草内村)
「天狗さん巡り(三)通信販売の元祖」(螢鳴生、京都茶業界、大正九年)
「明治二十五年(1892)に我国に小包郵便取扱制度の布かれた時、其処に着眼したのが、府下は綴喜郡草内村の人、古川専太郎である。彼は各地の新聞に宇治茶を紹介し、或いは山間僻地に広告郵便や葉書を出して「宇治茶をお飲み、一斤何ぼで小包郵便で送り届け云々」と云う具合に大々的に開始した。即ち之が製茶小包通信販売の元祖である。之に次いで古いのは、明治三十四年の並木掬翆園、久世の中川常緑園、明治三十九年の松本蟠龍園位であろう乎。其の後の通信販売は一進一退、数年後にして有利と目せられた此の業は、各地に小規模ながらも模倣家が出来、ここ両三年は素晴らしい勢いで増加し、昨今ではその数四十に上り、宇治田原郷のみみても二十余軒に及んでいる。此の通信販売業者の総売上高は、昨年度(大正八年)は百萬円と称えられたが、本年(大正九年)は恐らく百二三十萬円に上るであろう。これ等の業者は一度に十余万枚位の広告郵便を間断なく全国各地に発送し、其の成績は百に対して一の注文があれば、先ず好結果なりという。そうして盛んな店になると一ヶ年の注文数が三万余、即ち一日平均八九十の注文があるという。
今、通信販売王と称せられて多大の勢力あり、且常に奮闘努力怠りなき松本蟠龍園が毎月一万余の喫茶の友を得意先に配布し、数十万枚の広告郵便を未開地に発送して新しい需要を求めている。其の一ヶ年間の広告費は恐らく万余を下らないであろう。而して外の通信販売業者も亦売上高の約一二割は此の広告費に当てていると聞くに於いては、我宇治茶の宣伝費用も実に莫大なものといわなくてはならぬ。」

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(9)茎焙じ茶の元祖……林屋新兵衛(1902、明治35年)(宇治郡宇治村)
「茎の焙じ茶出現」(加賀茶業の流れ、米沢喜六、昭和51年、134p)
「この時期定価表には焙じ茶と名のつくものは見当たらないが、明治三十五年(1902)頃林屋新兵衛が荒茶精撰からの出物の内で、茎の使用法を研究した。茎のままでは味が薄く出が少ないので、焙じて売り出すことを考えた。これが今日の「いり茶」のはじまりである。」
茎焙じ茶の元祖は判明したが焙じ茶の元祖は誰であろうか?
「宇治かおる問題」(茶とともに、吉浜代作、昭和50年、89p)に「明治以来各家庭においては自宅で焙じ茶を作って飲用している。またこの焙茶用器も年末市内小売店において景品として配布している。その器具は木材のまげものへ日本紙をはめ込むちょうどホタル入れの形をした手のついた極めて簡単な道具である。」と書かれており、焙じ茶の発明者、元祖は不明である。
また、商品としての焙じ茶を全国に広めたのは大正13年、山城製茶株式会社の七条七之助の「宇治かおる」である。

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(10)抹茶加工品の元祖……米沢茶店(1902、明治35年)(金沢市)
「抹茶加工品出現」(加賀茶業の流れ、米沢喜六、昭和51年、133p)
「明治三十五年(1902)、抹茶の加工品が発売された。砂糖を加えて瓶詰として市場にお目見えした。当時としては珍しいものであった。名づけて御便利薄茶「宇治の露」。」
これが現在の「グリーンティー」の元祖である。

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(11)茶挽機械の元祖……中村藤吉(1912、明治45年)(久世郡宇治郷)、升半茶店(名古屋)
「天狗さん巡り、其の一、茶挽機械の天狗さん」(螢鳴生、京都茶業界、大正9年、1920)
「中村家は古昔より今に至る何百年かをお茶屋さんで通した旧家である。それ故に数百年来の因習に依って碾茶を石臼で挽くのに手を以て廻している。………それで中村藤吉氏は明治45年に至って漸く最も経済的な中村式茶挽機械を発明し遂げたのである。而して氏は直ちに第25028号という特許権を得て自家用に供すると共に世に発表した。今では府下茶業界王たる林屋合名会社の十何台かの購入を筆頭に阪部商店、岩井商店を始め遠く東京、名古屋、大阪、金沢、山陰地方に至るまで使用せらるるに至った。……この機械茶臼の回転数は一分間5,60回である。それで一日10時間作業で挽茶三百匁乃至八百匁を製造する。しかし出来るだけ微細な粉末にして挽茶の最良性質を帯びさすには一日ようやく三百匁位である。動力は一馬力あれば八台の臼を回転せしむる事が出来るそうだ。……故に螢鳴生は此のお茶挽機械発明者たる中村藤吉氏を以て其の元祖とし、天狗さんの一として奉るべきを至当とする。」
「升半史話」(和木康光、1970、昭和45年)
『名古屋で茶道がとくに盛んになったのは、文化文政の頃であった。明治30年代半ば、店の二階で茶を撰り、店の奥では柳などの仕立てがおこなわれたが、店頭では五人ほどの年配の女性がずらりと並んで座り、臼をまわして抹茶を挽いた。当時抹茶といえば、葉で買って行って自分自分の家に備えて、小さな臼を膝の上に載せて茶を挽く習慣があった。そのため仕入れた葉を店頭で挽かないと茶が古いのではないかということで買い足がにぶることもあった。抹茶に対する客の感覚はそれほど繊細であったのである。「わさびは怒ってかけ、お茶は眠ってひけ」というが、年寄りが気長にゆっくりと臼を回さなければいいお茶は挽けなかった。明治末期になって、升屋は茶臼挽きを機械化することに成功した。升屋に勤めていた岩間松次郎が人力車の輪からヒントを得て、下からベルト回しで回転させる方式を発明した。これを39台設備し、良質の抹茶を大量に製することができるようになった。』<升半史話P144~145>

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(12)粉末茶の元祖、缶詰茶の元祖……林屋新兵衛(1920、大正9年)(宇治郡宇治村)
「新製品の登場」(宇治市史、昭和53年、301p)
「大正九年(1920)宇治郡宇治村木幡の林屋新兵衛が、元首相松方正義の後援をうけて設立した日本茶精株式会社が生産を始めた「茶精」なるものは、まさに粉末茶の走りであった。茶の生葉を物理・化学的に処理することによって、煎茶、紅茶、番茶などの各種の茶の原液を抽出し、それを乾燥して「茶エキス(茶精)」という画期的な商品を製造したのである。この茶エキスの形状は粉末であり、従来の茶業界には見られなかった真空缶詰というものであった。」

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(13)固形茶の元祖……林屋新兵衛(1920、大正9年)(宇治郡宇治村)
「新製品の登場」(宇治市史、昭和53年、302p)
「日本茶精株式会社は、一方においてレモンティーや、現在の固形茶の嚆矢である「新緑茶」などの。従来の製茶業界の概念では捉えられない近代的商品をつぎつぎと発売して、業界近代化の先駆をなしたのであった。この日本茶精株式会社の独特の商品は、大正12年の関東大震災の影響によってその流通に一頓挫を来した。」
「林屋製茶合名会社」(城南紳士録、昭和7年、384p)
「大正13年12月には日本茶精株式会社出願に係る新緑茶が新案特許権を獲得する。昭和2年1月より東京三越、京都秋山等を得意として発売せり。該新案製茶は、茶の粉末と海藻とよりなり、価格低廉、しかも多量のヴィタミンを含み、且茶特有の香気を失わず斯界新記録の一なりと称せらる。」
「美いろ茶と桑茶」(加賀茶業の流れ、米沢喜六、昭和51年、173p)
「昭和3年から美いろ茶、昭和4年から桑茶が市場を賑わした。美いろ茶は昭和2年10月13日に林屋製茶合名会社の名で中央会議所の承認を受けている。固形茶に豆ともち米の焙じたものを加えたもので好評を受けた。固形茶の先駆であった。桑茶は岩手県二戸部淨法寺小田島雪太郎が昭和4年4月23日中央会議所の承認を受けて売り出し、全国に好評発売された。中風予防と称せられ金沢もその市場のひとつであった。」

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(14)玄米茶の元祖……堀井喜四郎(1923、大正12年)、蓬莱堂茶舗、笠半
玄米茶の元祖については諸説がある。調査の結果、三つの説が明らかになった。
その一。堀井喜四郎(1923、大正12年)
三つの説の内、年代の明らかな説は堀井喜四郎である。堀井喜四郎は大正時代日本領土であった朝鮮のピョンヤン(平城)に販売先を持っていた。当時の朝鮮では穀類茶が飲まれていた。堀井喜四郎はピョンヤン大学の教授に依頼されて茶と米のブレンド茶を考案した。日本で玄米茶の特許申請をしたが、あまりに簡単であることから特許は認められず、大正12年(1924)に登録商標「花やなぎ」として玄米茶を販売開始した。「ねずみと玄米茶」(小山茂樹、淡交、平成20年)には、「おくどさんががどこの家庭にもあったころ、釜底にできたおこげを外すのにお湯を入れ、これに少し塩味をつけて飲みました。これをぶぶと呼び、これほど香ばしく美味しいものはありません。この味を茶に生かそうと大正12年、堀井喜四郎という人物が炒り米を混ぜた花やなぎという茶を作ったのが玄米茶の始まりです。」と書かれている。
その二。蓬莱堂茶舗(大正時代)
京都の蓬莱堂茶舗のホームページに、「大正時代に、御茶事の懐石の際に供される湯桶の芳ばしさにヒントを得て、当舗が創案・販売致しました蓬莱番茶こそが、今日広く親しまれている玄米茶の始りでございます。当舗では、元祖として玄米茶とは称さず、屋号にちなんで蓬莱茶と呼んでおります。」と書かれている。
その三。笠半(大阪)
谷本陽蔵氏に玄米茶の元祖をお聞きすると、「玄米茶は大阪の笠半という茶舗が元祖である。大正時代のことと思われる。笠半はつぶれて今は無い。」と云う事だった。

玄米茶の元祖も玉露の創製と同じく諸説があっていずれとも定めがたいが、どの説も大正時代であるという事は一致している。

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(15)碾茶機械の元祖……堀井長次郎(1924、大正13年)(久世郡宇治町)
碾茶製造の機械化は大正中期より始まる。大正八年(1919)久世郡小倉村伊勢田の西村庄太郎と竹田好太郎による竹田式碾茶製造機械、大正九年(1920)愛知県碧海郡高岡村の山内純平による三河式碾茶機械、大正14年(1925)紀伊郡伏見町の築山甚四郎による築山式碾茶機械、大正15年(1926)京都府茶業研究所の浅田美穂らによる京研式碾茶機械など数式の碾茶機械が発明されたが、大正13年(1924)久世郡宇治町の堀井長次郎が発明した堀井式碾茶機械は、その使用成績が抜群で急速に普及した。
現在、日本中で稼働している碾茶機械は、全て堀井式である。

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(16)茶冷蔵庫の元祖……小山政次郎(1928、昭和3年)(久世郡小倉村)
「業界革新」(日本の茶歴史と文化、吉村亨、若原英弌、昭和59年、248p)
「久世郡小倉村の茶業家小山政次郎は、数年におよんだ不況の影響をうけて低迷する茶価に苦しんでいたという。滞貨する荒茶の処置に困惑した小山は、試みに京都市の龍紋氷室株式会社の冷蔵庫にその荒茶を預けてみた。もう売り物にはならないだろうとあきらめていたのだったが、予想外に良好な状態で出てきた荒茶をみて、茶の冷蔵保存の効果に気づいたのである。」

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(17)冷凍茶(万年新茶)の元祖……小山政次郎(1930、昭和5年)(久世郡小倉村)、N堂T商店(大阪)
「お茶の冷凍について」(茶、大西定石、昭和26年、60p)
「丁度今から二十余年前の秋十月頃に大阪市から包装も鮮やかに「万年新茶」と銘打って四半斤、半斤の缶詰茶が賑やかな鳴り物入りで市中に売り出された。季節はずれの新茶と云うので珍しがりの大阪人に人気を煽って飛ぶように売れたものだ。この発売元と云うのは、N堂T商店で今は無いが当時大阪市の茶商であった。万年新茶は即ち冷凍茶で、その時代としては非常に珍しく一般茶商には思いもよらぬものだった。この冷凍茶初案の元祖は現代の宇治市小倉町茶問屋小山政次郎氏で、親戚の清酒醸造家が酒の粕を冷凍して翌年の醸造期に之を蔵出し、一般同業者より一足先に新製粕として売り出すという奇知にヒントを得て、茶を冷凍する事を考案した。と同時にアンモニヤ式による冷凍庫を建設したが、この時伊勢田町の茶問屋北川半兵衛商店も同様新設したのであった。(宇治の辻利兵衛本店も)この事をN堂が嗅ぎつけて素早く「万年新茶」としてお株を取ったのである。」(尚、冷蔵庫の中で茶臼を回し抹茶を製造する事を始めたのも小山政次郎である。)

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(18)茶撰機の元祖……服部善一(1935、昭和10年)(久世郡白川村)
茶業界において、昔から女性の持ち場とされた職場が三つあった。その一つが茶生産家における「茶摘み女(つみこ)」であり、一つが茶問屋における「茶撰り女(よりこ)」であり、今一つが小売店における「売り女(うりこ)」であった。この三つのうち現在も全国で活躍しているのは「うりこ」だけである。「つみこ」は宇治、八女、岡部の玉露生産地と宇治、西尾の碾茶生産地でしか見られなくなった。そして、完全に姿を消してしまったのが「よりこ」である。「よりこ」が完全に姿を消す原因は、服部善一の発明した「服部式電気茶選別機」と「服部式電子色彩茶選別機」であった。
「昭和10年特許出願公告第2029号「静電的茶葉選別装置」
京都府久世郡宇治町白川宮ノ後2 発明者 服部善一
発明ノ性質及目的ノ要領
本発明ハ乾燥シテ電気的不導体トナセル木茎黄葉混入茶葉ヲ相互ニ摩擦スルトキハ茶葉及木茎黄葉ハ相異ナル種類ノ帯電ヲナス事実ヲ利用シ、カカル帯電セル状態ニアル木茎黄葉混入茶葉ヲ別ニ設ケタル電気発生装置ニヨリテ定方向電位ヲ給電セラルルニ電極間ニ導キ、以テ茶葉或ハ木茎及黄葉ノ中任意ノ種類ヲ該混入茶葉中ヨリ一電極ヘ分離吸引ナサシムルト共ニ他種ヲ反発ナサシメテ選別セントスル静電的選別手段ヲ応用セル茶葉木茎黄葉選別装置ニ係リ、其ノ目的トスル所ハ簡単ナル装置ニヨリテ迅速且衛生的ニ茶葉木茎黄葉ヲ選別セントスルニアリ」

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(19)深蒸し茶の元祖……小松喜三次(1952、昭和27年)(菊川町)
「深むし茶の産ぶ声」(菊川町茶業誌、昭和59年、457p)
「有名な茶工場を訪ねて生葉を持参して製品に仕上げてもらったが、形は良いが「にがい」「しぶい」「青くさい」と散々の茶であった。私なりに考えて牧之原台地は夜が明ければ夕方まで太陽が輝き、暮れれば西風にさらされるという立地条件で葉肉が厚く丈夫である。それならば普通の蒸し方では充分に蒸けぬ。川根方面の茶葉とは違うのだと推量して、これは充分に蒸しさえすれば葉肉が厚い分だけうまく飲めるではないかと判断した。そこで家にある蒸機の胴を取りはずして改良し、蒸しが十二分に出来るようになった。ところが、製品の形がまるで出来ない。水色香気は非常に良いが、売りにゆくと相手は手にとって誰も同じ様なことを言う。「形が悪い、粉が多い、機械を変えた方がいい。」と、ただその中で試験場の有馬先生と商人の一人が褒めてくれた。
粉茶同然の茶だとして他の茶商が相手にもしてくれなかった時に、「これは素晴らしい。」と深蒸し茶を評価し最初に売り出したのが、神奈川の茶商、綱川さんである。」
「深蒸し茶の元祖は誰が何と唱えようとも、小松さんであることは絶対間違いないことである。」元菊川農協組合長 内田貞男誌
特蒸し茶を発明した小松さんは代々の古い生産家ではなかった。信州上伊那の出身で商売に失敗し20才の時に死ぬ気で信州を飛び出している。菊川で8反歩を開墾して就農したが、昭和27年までは生葉売りであった。昭和22年に1反歩のヤブキタを植えている。このヤブキタが特蒸し茶の基になった。昭和27年に製茶機械を設置して自園自製を始めたが、直ぐに蒸し機の改造をしている。蒸し機の改造で思いどうりの蒸しができ、望みどうりのお茶ができたが、その茶は見たところ色沢が赤く、全く粉が多くて、まるく撚れているものがない従来にない茶であった。全てのお茶屋が「これでもお茶か」と散々の評価だった時に、「これは変わったお茶だ、うまいお茶だ。」と評価してくれたのが川崎の綱川弘さんであった。綱川弘さんも代々の古いお茶さんではなかった。戦後に大森のお茶屋さんより独立して、川向の川崎で小売店を創業したとこであった。古い仕入れ先がなく、静岡、藤枝の問屋と取引できなかった。川崎は労働者の町で味の薄い上品な茶は合わない。パンチがあり、何回も煎の利く味の濃い茶を求めていた。
従来の色や形の奇麗な茶でなく、味にこだわって粉々の茶を作った小松さんと、その粉茶のような茶を「うまい茶」と評価して世に売り出した綱川さん、お二人とも初代であるのが共通している。
それにしても、現在の味のない青汁みたいな「深蒸し茶」しか出来ないのはどうしてだろう。色は赤黄色くてもコクがあり、味が濃く、パンチの効いた昔のような「うまい」特蒸し茶をもう一度飲んでみたいものである。

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(20)味付け茶の元祖……不明
味付け茶の元祖を調べたが、元祖は不明である。現在では味付け茶と云えば伊勢茶であるが、もともとは京都の業者が始めたものらしい。グルタミン酸ソーダを水に溶かして霧吹きのような噴霧器で仕上げ茶に噴霧し乾燥させたのが始まりらしい。現在では荒茶製造工程において添加されている。

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(21)着色茶の元祖……不明
着色茶、所謂重層蒸しの元祖も不明である。発祥地は京都か三重であるらしい。

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(22)モガ茶の元祖……京都府茶研(1933、昭和8年)(久世郡宇治町)
① 簡易碾茶=「モガ」と粉砕機の研究の歴史
簡易碾茶の研究は京都府茶業研究所において昭和8年(1933)より始まっている。「所謂碾茶機械と特定されたものを用いる事なく、既設の製茶機械を利用し、部分的の改良を行って完全とは言い難いまでも、碾茶の製造は出来ないものであろうか?」として、「橋本式葉打粗揉機を改造応用した碾茶簡易製造法につき調査研究を行った。」(京茶研彙報第9~11)
「橋本式葉打粗揉機の揉手を全部取除き、胴内面に茶葉を持ち揚げる凸板(約7糎)を8か所に取付け、換気を充分ならしめるために排気口を大きくし、之に伴う扇風機翼を大きくし、回転数を少なくし(胴1分間12回転、扇風機224回転)で研究した。生葉量は約1瓩を採り蒸し速度20秒とした。」
「第2回調査の成績によれば碾茶機械による製品に比し形状は縮み黒味を帯び、良好ではないけれども重なり葉は割合少なく、香味に於いては挽茶式の香を含み甘味又濃厚である。」
上記のように簡易碾茶の研究が始められたが、これは軍需用に安く抹茶を製造する必要があった為であると考えられる。そのため茶臼に代わる粉砕機の研究にも着手している。それは京都府茶業研究所において昭和11年(1936)より開始された碾茶指定試験である。その中で茶研は「碾茶の製粉に関する調査」としてボールミルなど粉砕機による碾茶の抹茶加工研究を始めている。これも用途は軍需用である。昭和51年に京都府茶協同組合において碾茶粉砕機(セラミック)研修会が開催されている。

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