お抹茶のすべて 1-2 【宇治煎茶の主産地「和束」はいかにして碾茶の主産地になったか。】

(2)ハーゲンショック以降
平成8年、ハーゲンダッツが世界で抹茶のアイスクリームの発売を開始します。その原料である碾茶が京都で仕入れられることになりました。
平成7年には238トンしかなかったところへ、大量の別注が入った為に、碾茶の価格は前年の4千円が6千円、1万円が一万5千円と前年度の150%近くまで高騰し、2茶碾茶でも4千円台が珍しくない相場になりました。ハーゲンショック以降、和束でも碾茶炉の建設ラッシュになりました。その後、平成17年のスタバショックと平成23年の福島ショックも碾茶生産の拡大の後押しをしました。和束では平成元年に1炉、平成8年には4炉だった碾茶炉が、現在(平成27年)では34炉になっています。
平成6、7年頃からは1番茶だけだった京都のハサミ刈碾茶に2茶碾茶が加わりました。その後の2茶碾茶の急増は激しく、2茶煎茶と一緒に上場されていた2茶碾茶が平成12年からは2茶碾茶単独で茶市場で入札されるようになりました。
平成26年の京都府碾茶生産量は1茶碾茶556トン、2茶碾茶398トンです。この30年で、京都府でゼロだったハサミ刈碾茶が850トン以上増加したことになります。このうち和束町の碾茶生産量は1茶碾茶229トン(41%)、2茶碾茶164トン(41%)で、今では日本一の碾茶生産量の市町村になっています。(秋碾茶の生産量を省く。)

(3)和束町の碾茶成功の要因
昭和60年頃から始まった抹茶の食品への利用は、平成8年のハーゲンダッツの成功で急激に加速しました。また、国内だけではなく海外へも大きく販売先を拡大することになりました。
乗用摘採機が数台しか入らない急峻な茶園の多い和束が日本一の碾茶生産量の町になりえた要因の第1は、食品加工用途の抹茶の需要が急激に拡大したことです。
和菓子、洋菓子、スナック菓子、アイスクリーム、抹茶ミルク、抹茶ラテ等々、国内だけではなしに海外でも抹茶の利用が伸びています。この抹茶ブームを押し上げ定着させたのは、平成8年のハーゲンダッツと平成17年のスターバックスの力が大きかったと思います。要因の第2は、宇治抹茶として売れることです。
また、和束の生産した碾茶を宇治抹茶として加工販売してくれる宇治茶問屋があるからです。「宇治」というブランド力の中に生産地があるのが強みです。
要因の第3は、和束において覆いの技術が磨かれてきたからです。昭和40年頃までは和束のお茶は露地煎茶一本でしたが、昭和40年代の中ごろより化学繊維の直被覆のかぶせが生産されはじめました。
この覆い下の栽培技術、栽培経験の積み重ねが大きいと思います。要因の第4は、和束には多様な茶品種が栽培されていたことです。オクミドリが多く栽培されていたことと、サミドリをはじめとする宇治品種が多かったのが良い結果をもたらしました。
それまでの西尾のハサミ刈り碾茶と比べて品質的には格段に良質な製品が生産されるようになりました。特にオクミドリは食品加工用抹茶として人気があります。オクミドリは露地でもヤブキタを1週間被覆したのと同じくらいの葉緑素を持っているので、挽き色の緑が濃いことと、抹茶に点てて飲むと苦渋くてお点前用には適さないのですが、食品加工用に用いるとその苦渋さがミルクや砂糖に負けずに抹茶らしい味が引き立つことで高い評価が与えられています。

(2016年1月掲載)

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脚注・解説:

⑤秋碾茶(あきてんちゃ)
秋番茶を碾茶炉で焙ったもの。碾茶炉で揉まないで製茶されているが、栽培が露地栽培のために秋碾茶を粉末にしたものに「抹茶」と言う名称を付けて良いかどうか議論があり、決定していない。

⑥茶鳶(ちゃとんび)
京都における茶斡旋人の別称。荒茶生産地の生産家から見本を預かり、宇治の茶問屋にその荒茶を斡旋する。売買が成立すると売り手、買い手双方から歩一(ぶいち、1%のこと)
をいただく。元手をかけないで商売の美味しい所(2%の利益)を持って行くので、「トンビに油揚げ」に掛けて「トンビ」「茶トンビ」と言われた。静岡ではこれを「サイトリ」という。「サイトリ」の語源は諸説あり、「利鞘」(りざや)を「取る」から、「サヤトリ」から「サイトリ」になったという説が有力である。
私の「サイトリ」説は、江戸時代の宇治には宇治御茶師と茶生産家の間を取り持つ「スアイ」という斡旋の職業があった。この「スアイ」「スアイトリ」と言う言葉が宇治製法とともに静岡に伝わり、「スアイトリ」が転じて「サイトリ」になった。というものです。