『昔の抹茶と今の抹茶』の違いについて【その1】

(1)品種

栄西が我が国に抹茶を伝えて以来、昭和の初期まで茶の木は全て在来実生でした。
在来実生は早生と中生と晩生が混在しているため、茶の摘採適期が短く良い製品の出来る期間は非常に短期間になります。

江戸時代には宇治茶師は毎朝茶園を見回って、その日に摘めばちょうど良い茶の木に紙で目印を付けました。
これを紙付け(カミツケ)と言います。
昔は今よりも早い時期から茶摘みをしました。若い芽を碾茶に焙ると、葉緑素が少なく白い挽き色の抹茶になります。「なになにの白」という茶銘が多いのはそのためです。
また、品種がなかった時代は、同じ碾茶の荒茶からお濃茶用碾茶とお薄用碾茶を手仕上げで選りわけていました。
一芯四、五葉を手摘みした芽のうち、二葉と三葉の二枚だけがお濃い茶の原料になります。
この葉の中でも葉の脈、葉の先、葉の元は駄目です。二枚の葉の中央部の葉肉のみがお濃茶になります。
しかし、現在では荒茶の段階でお濃い茶用荒茶とお薄用荒茶に分けます。
現在、同じ荒茶からお濃茶用とお薄用を選り分ける技術は伝えられていません。

宇治では昭和6年頃から東宇治の平野甚之丞が品種の選抜を始めました。
それに続いて昭和9年頃から小倉の小山政次郎が、また昭和14年頃より京都府茶業研究所が品種の選抜を始めました。
現在、宇治の碾茶、玉露の品質が日本一でいられるのは、平野さんが選抜した「あさひ」「こまかげ」、小山さんが選抜した「さみどり」、 京都府茶業研究所が選抜した「ごこう」「うじひかり」などの宇治品種のお陰です。

現在では京都府の茶園の約95%が品種園です。
品種のおかげで摘採適期に摘める茶が多くなり、非常に早い時期の茶摘みも、雨の日の茶摘みもなくなりました。

執筆:2014年3月