精揉機の魅力(1-2)

「4」木枠助炭

「従来の煎茶(せんじちゃ)」より高級な「上煎茶(じょうせんじちゃ)」の製法である青製(宇治製)は1738年(元文3年)以降、近隣から全国に波及していきます。
手揉技術の進展を考察するうえで一番重要な事は、現在も使われている木枠助炭(木の枠に和紙が張ってある助炭)が何時ごろ発明されたかを解明する事です。永谷宗円は紙助炭の焙炉を使用していますから紙助炭の上では体重を掛けて強く揉む手法は行えませんでした。
幕末から明治以降に木枠助炭を利用した手揉手法である「軽い回転揉み」(横まくり、ころころ、てんこ、ころがし)や「重い回転揉み」(練り揉み、突き練り、重きころがし、萬力揉み)や「片手まくり」「転繰(でんぐり)」「炉縁揉み」「板摺(イタズリ)」などが開発されていきます。それでは、いつ頃に木枠助炭は発明されたのでしょうか。

(1)若原英弌の「日本の茶、歴史と文化」の208ページには「碾茶の製造の場合は絶対に茶を揉まないから枠のついた丈夫な助炭は使わない。宗円以降この助炭(木枠助炭)が用いられるようになったのである。」と書いています。若原氏は宗円以降木枠助炭が使用されるようになったという認識です。(若原先生は私の恩師です。今から20年以上前のことですが、茶について分からないことがあると、なんでも若原先生に質問していました。製茶の事まであまりにも何度もしつこく質問する私に若原さんは、「桑原さん、あなたの本業は茶業でしょ。製茶については私より分かっているはずです。分からないこと、疑問に思ったことは、私に聞かないで自分で調べなさい。」と云われました。私が平成18年(2006年)、56歳から勉強しだしたのは、若原先生と高宇さんのおかげです。)

(2)大石貞夫の「牧之原開拓史考」147Pには、「さて、天保八年(1837)ころ坂本藤吉らが伝えた方法は、どのようなものであったかというと、まず、新芽を用いた蒸製であること、茶芽を最初からホイロで揉み乾かすという方法であった。もっとも揉むといってもホイロに鉄の渡し棒を使わなかったので竹を渡して助炭をのせ、その上で揉むのであるから、強い力で押しころがすことはできなかったから、もっぱら葉ぞろえ揉切製法であった。」と書かれ、助炭(木枠助炭)はあったが、鉄の渡し棒(鉄橋)が無く竹の渡し棒だったので、強い力で揉むことは出来なかったと解説しています。大石氏は1837年(天保8年)頃には木枠助炭が使用されていたという認識です。

(3)中村羊一郎の「茶の民族学」277Pには、「従来の焙炉は、土で築いたかまどに炭をおこして割り竹を渡した上に和紙を張った枠を載せるだけであるから、茶葉の水分を蒸発指せることはできても、その上に力をかけて茶葉を動かすことはできなかった。しかし、明治初年にいたり、助炭の下に鉄棒などを渡すことが始まり、これによって助炭に体重をかけて茶を揉捻することができるようになった。」と書かれ、和紙を張った枠=木枠助炭はあったけれど、明治初年迄鉄棒が無かったから助炭に体重をかけて茶を揉捻することが出来なかったと解説しています。大石氏と同じです。

(4)「静岡県茶業史正編」の142Pには、「天保、弘化の交に至り、宇治(志太郡伊久美村坂本藤吉氏招聘)及び信楽(榛原郡上川根村殿岡氏招聘)の人を師として茶葉を最初より炉上にて揉み乾かすことを学べり。当時は炉上に鉄の渡し棒を用いることなく、竹を渡したる上に助炭を置きしものなれば、茶葉を圧搾横転する能はず、最初より葉揃揉切の法によりしかば、其操作に多大の労力を要せしも、其製茶は高価に売れ行きたるが故に、其術を伝え習うもの多かりき。是れ宇治製の本県に入りし始めなり。」と書かれています。大石氏、中村氏と同じく静岡に伝えられた時から木枠助炭はあったという認識です。

(5)「静岡県榛原郡茶業史」の63Pには、「安政六年(1859年)牧田惣太夫なるもの宇治風の製造を為し、此時始めて焙炉を築きたりと。其構造は土間に杭を打ち柱となし木枠を設け周囲は竹にて編み付け内部は土を塗り、二つ割りの竹を架し上に竹網代を置き之に厚紙を貼りたるものを載せ、蒸葉を入るるなり。製法は露切りをなし、両手を以て揉み切り乾燥せしめ、形状甚だ粗悪なり。」と書かれています。榛原郡では安政6年(1859年)には紙助炭です。宗円と同じく露切りと揉切りで茶を揉んでいます。木枠助炭、鉄橋は無く、焙炉紙です。

(6)「静岡県榛原郡茶業史」の58Pには、「文久元年(1861年)伊久美村の人金平、焙炉十八個を設けて宇治製伝習をなせり。此時金平氏は自ら渡金鉄器及助炭等の器具を携え来りしを、付近の人見習うて焙炉上に竹を渡し竹製の網代を置き、其の上に渋紙様の助炭を敷きて揉みたりと云う。」と書かれています。伊久美村の金平氏は文久元年(1861年)に渡金鉄器及助炭(木枠助炭)を持っていたと云う事は、文久元年(1861年)には伊久美村に助炭、鉄橋が伝わっていたことになり、文久元年(1861年)以前に宇治で木枠助炭、鉄橋が開発されていたと云う事になります。

(7)松尾清之丞の「製茶沿革」には、「此れが盛況に遇し、従前の炉紙を以て製焙するの不便を感じ、初めて助炭と称する、四方郭を木製にし底に厚紙を貼付し乾燥器と為すことを発明し、又蒸芽に最も適当なる鶺鴒釜は、此年間に発明せしものにして。」と書かれています。松尾清之丞は安政年間(1854年~1860年)に製茶用木枠助炭が発明され、焙炉が揉む為の機能をも持つようになったと書いています。同時に鶺鴒釜も発明されたと書いています。


■木枠助炭のまとめ

(1)は木枠助炭は宗円から使われ出した。(2)(3)(4)は宇治製が静岡に伝播した天保の時から木枠助炭だった。(5)は榛原郡では安政6年(1859年)には紙助炭だった。(6)は文久元年(1861年)に伊久美村に助炭、鉄橋が伝わっていた。(7)は安政年間(1854年~1860年)に製茶用木枠助炭が宇治で発明されたと説明しています。私は(5)(6)(7)が正しいと考えています。一番の論拠は、玉露が創製された天保年間(1830年~1844年)において、玉露創製の伝承が残る、小倉、中宇治、木幡、六地蔵の何れの伝承も碾茶焙炉、紙助炭を使用して玉露を製造している事です。天保年間の宇治(山城)には木枠助炭はありませんでした。明確に木枠助炭の存在を示す一番古い史料は、明治4年(1871年)に彦根藩が発行した「製茶図解」です。よって、天保以降より明治4年までの約25年の間に木枠助炭が発明されたことになります。(7)の松尾清之丞の「製茶沿革」はこれまでどの書物、論文にも引用されたことがない史料ですが、私はこれが正しいと考えています。(7)を正しいとすれば、(5)(6)も正しいと考えられます。結論は「木枠助炭」は安政年間(1854年~1860年)に宇治で発明され、焙炉は乾燥する道具から、揉んで乾燥する道具へと進化したと云う事です。


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