1月号は「永谷宗円」「青製」「木枠助炭」、2月号は「手揉手法の進展」、3月号は「全国各地の製茶」、4月号は「茶業統計」、5月号は「米国における日本茶」「明治時代の製茶機械の発展」、6月号は「精揉機が普及した時代」「大正10年の式名別機械台数」「大正時代の製茶機械の進展その1」について調べました。7月号は「大正時代の製茶機械の進展その2」を調べます。
「13」 大正時代の製茶機械の進展その2(大正6年~9年)
(31)瀧恭三は「本県製茶機械の増加」「茶業界」第12巻第8号(大正6年、1917年)で次のように書いています。
「本県に於ける製茶機械の増加は驚くに堪えたり。そは近年市場に於いて手揉茶に比し機械製茶が比較的高価に売れ行くのみならず、労銀及燃料その他の高騰は機械製茶に有利なる為一層その使用者を増加せしめたるなり。大正元年度12420台、二年度14317台、三年度15659台、四年度17517台にして、五年度に至りては19206台を算し、本年度はすでに二万台以上と称せられ、その間一ヶ年平均1350台余台づつの増加を示せり。而して特に注目に値するは揉捻機及精揉機の激増にあり。揉捻機は元年に於いて1460台なりしも五年度は3058台となりて倍数以上に達せり。精揉機は元年度69台に過ぎざりしも、五年度は2670台におよび殆んど40倍の激増をなしたり。之本県製茶業が近年如何に機械使用者を増大し、該製品が如何に市場に激増し来れるかをしめすものにして、揉捻機、精揉機の激増はやがて製茶が益々硬葉摘を誘致して粗大となり、その品位劣下しつつあるを数字的に表明するものと云うべく。」
静岡県では製茶機械が激増し大正6年には2万台以上になりました。特に、大正元年から揉捻機と精揉機が激増し、益々硬葉摘を誘致して粗大となり、その品位が劣下しつつあるのを数字的に表明するものです。その原因は、第1次世界大戦により下級茶であっても造れば売れたからです。
(32)「日本茶輸出百年史」199p(大正6年、1917年)には次のように書かれています。
「製茶機械が第1次世界大戦の前後になって普及したのは、一体なぜであり、それは何を意味しているのか?第1次世界大戦において、参戦はしたが戦争の第一線に立たなかった日本が経済的に有利な立場に立った。連合国及びその貿易関係国から軍需品そのほかの物資の注文が殺到し、日本の貿易は異常な発展をとげた。日本茶貿易もこの影響を受け、大正6年(1917年)には6,689万ポンド(30340トン)という未曽有の輸出数量に達した。機械製茶の驚くべき普及の理由、いいかえれば手揉製茶を機械製茶に発展させたことの理由は、この未曽有の輸出数量の中に隠されているのである。」
日本における手揉製茶から機械製茶への発展を促進させたのは、第1次世界大戦(1914年、大正3年~1918年、大正7年)です。高価な製茶機械が買えたのは、茶が売れたからです。大正6年(1917年)には過去最高、30340トンの輸出数量になりました。
(33)川崎正一は、「精揉機製茶にも斯くの如き優品あり」「茶業界」第14巻第3号(大正8年、1919年)で次のように書いています。「今年の茶業に対し吾人の最も注意すべきは、戦時中我製茶の米国に於いて好況なりし結果、品質の粗悪なる製茶の多額に輸出せられたる事にして、…本県製茶の大半は精揉機製茶なるが故に、之が改善は特に焦眉の急なるを信ず。甲種類…粗揉機(橋本式)18分、揉捻機(望月式)10分、再乾(橋本式)13分、精揉機(栗田式)30分、乙種類…粗揉機(高林式)35分、揉捻機(臼井式)8分、再乾(臼井式)15分、精揉機(高林式)30分」
大正8年(1919年)には機械製茶に於いて、揉捻機と精揉機の間に橋本式や臼井式の葉打機を再乾機として使用するようになっています。精揉機の使用時間は30分間でした。
(34)鈴木孫太郎は、「今後の製茶方針」「茶業界」第14巻第11号(大正8年、1919年)で次のように書いています。
「精揉機はどうかと云うに、今後の製茶隆盛の鍵は一に係って此の精揉機にあると思う。機械製茶の形状は精揉機によって出来ると同時に、所謂機械臭いと云う点は此の精揉機によって付けられて行くのである。精揉機へ十分なり五分なり多く入れて置けばそれだけ香味が落ちて行くのである。形状を犠牲にして、風味を重んずるか、風味を次にして形状の整一を計るか。それらはその原葉に準じ、若しくは時の相場によりて製造方針を定めなくてはならぬ。」
第1次世界大戦が終わり、米国への輸出が減少しています。鈴木孫太郎は「形状を犠牲にして、風味を重んずるか、風味を次にして形状の整一を計るか」、今後の製茶隆盛の鍵は精揉機にあると云っています。本来ならば、国内用が増加すれば「形状を犠牲にして、風味を重んずる」方向に舵を切るべきなのですが、この後も日本の製茶は「風味を二の次にして形状の整一を計る」方向を続けます。不思議ですね。
(35)静岡県立農事試験場茶業部は「本年の茶業に資せんが為に」「茶業界」第15巻第1号(大正9年、1920年)で次のように書いています。
「精揉機…第一臼井式は単に製品上より見る時はやや理想的のものを得ること第一位にありと雖も使用方の不便、工程の小、揉捻匣(木製)の歪みを生ずること、及燃料を多量に要する嫌いあり。尚、硬葉の仕上には適さざるが如し。第二臼井式は工程に於ては上位にあれども茶葉の葉浚(はざらい)及輸送装置に故障の生じ易き嫌いあり。製品其の他は総て中位にあり。高林式大揉装置は工程の大なること第一位にあり。使用方も亦簡便なれども揉台の竹製底部が焦損する嫌いあり。製品其の他は中位にある。八木式は製品に於ては第一臼井式と伯仲し、使用方亦比較的簡便なれども、区別して仕上げる茶葉を同時に処理せざるべからざるを以て、火度の調節上甚だしき困難を感ず。尚底部は木製成るを以て磨滅焦損の嫌いあり。栗田式は製品及工程は総て中位にあり。構造最も簡単にして使用方至便なり。橋本式は製品工程其の他総て中位にあり。」
大正九年当時の製茶機械各種の評価です。第1臼井式と八木式は小手揉みで品質の良い製茶が出来ますが、硬葉には適しません。第2臼井式、高林式、栗田式、橋本式は大手揉みです。
(36)京都府茶業組合聯合会議所は「本年の茶業に資せんが為に」「茶業界」第15巻第1号(大正9年、1920年)で次のように書いています。
「本府の粗揉機及葉打機は790台で粗揉機は高林式が最も多く、丸茶式、内野式、丸竹式等がある。葉打機は栗田式、望月式がある。揉捻機は34台。精揉機は45台で栗田式、高林式、臼井式等がある。之に対する批評は、未だ真に山城茶に適する機械と認めるべき機械は一つもなく。…機械茶にして手揉に劣らざる製品を得るには最優良なるものにありては殆んど不可能と称すべけれど、普通品にありては生葉の取り扱いに注意し能力以下に投入し、若しくは使用したる後優れたる手揉茶師により仕上げれば必ず手揉に劣らざるものを得るべし。但し精揉機応用は未だ研究時代にて、現在の何れの式を問わず良茶を産するに適せず。粗硬なる芽を以て製造する方、使い易きを以て、知らず知らず粗製に流れるの怖れあり。今一層完全なる機械の出現を待つ外なし。」
大正九年の京都府では、粗揉機790台、揉捻機34台、精揉機45台が使用されています。静岡県にくらべて京都府の機械化は大変遅れています。静岡県が手揉13%、半機24%、全機62%に対し、京都は手揉44%、半機41%、全機15%です。大正9年当時、山城茶に適する機械は一つもありません。特に京都に適した精揉機はありませんでした。京都の精揉機応用は未だ研究時代です。製茶機械は粗硬なる芽を以て製造する方が使い易い。
(37)瀧閑村は「茶業改造論」「茶業界」第15巻第4号(大正9年、1920年)で次のように書いています。「製茶機械の改造…少なくとも機械としては、一方に生葉を投入すれば、蒸して、揉んで、乾燥し、製茶になって出る位のものを理想とせねばならぬ。現在の如く個々に働くのでは、其動力も非常に損であり、其製造能率も非常に損である。第二に、現在の機械中精揉機の如きは、中にも改良を要する。是は云うまでもなく手揉の転繰製を基準として製造したものである故に、品質の良否よりも多量に仕上ぐるのを目的としている。殊に近年中以下茶の流行に伴って此の傾向は著しくなって来た。良茶を製造するを利とすべき今日に於ては是に注意して改造すべき要がある。殊に更に根本に分け入って、製茶は形を以て売るのでは無い。香味を以て売るべきであるから、形状を整えると共に香味を減ずべき精揉機を使用する事は廃すべきものである。と云うような議論も一部に台頭してきた今日に於て、其改善は頗る緊急であると言はねばならぬ。」製茶機械の理想は一連式製茶機械です。現在の機械中、精揉機は手揉の転繰製を基準として製造したものである故に、品質の良否よりも多量に仕上げるのを目的としています。第1次世界大戦が終わり、下茶より良茶を製造する必要のある今日では精揉機の改造が必要です。「製茶は形を以て売るのでは無い。香味を以て売るべきであるから、形状を整えると共に香味を減ずべき精揉機を使用する事は廃すべきものである。」と云うような議論も一部に台頭してきたと「茶業界」誌の主筆が書いています。大正時代にも、私と同じ方向で考える人もいたのですね。