(1)「日本教会史」(ロドリゲス)(岩波書店版、570P)天正年間(1573年~1593年)
木製の焙炉、細竹の格子、焙炉紙が確認できます。碾茶製造に必要であると思われる「さらえ」(ネン)についての記述はありません。安土桃山時代の天正年間には手製の碾茶製造法はほぼ確立されていました。江戸、明治、大正期の碾茶製造とほぼ同じ用具が約350年前の天正期に行われていたのが分かります。宇治に於て碾茶機械が発明され出して実用化されだすのは大正末期です。
(2)「雍州府志」(黒川道祐)天和3年(1683年)
1683年、江州曽束村の揉茶(もみちゃ)についての記述です。殺青は湯引きです。湯引きの後、板の上で足揉みをしています。又藁蓆の上で床揉みをしています。床揉みは両手で前後左右に回転揉みをしていたと考えられます。乾燥用具(焙炉)についての記述がないので日干だと考えられます。足揉みは初めて見たと書かれているように両手で床揉みするのが普通だったようです。
(3)「農業全書」(宮崎安貞) (1696年)
宮崎安貞の「農業全書」の碾茶製造の記述では、囲炉裏(焙炉)の長さは一間、約181cmです。炭をおこし、その上に藁を燃やして衣にします。竹の簾を渡し、高野紙を二重にはりあわせて紙助炭にします。竹製のねん(さらえ)を持って葉を乾かします。約100年前の「日本教会史」とほぼ同じですが、衣藁(ころもわら)とねん(さらえ)が書かれています。
「農業全書」の煎じ茶(せんじちゃ)の記述では、摘採は新芽と古葉を残らず摘んでいます。灰汁を使った湯引きです。蓆、縄筵の上で床揉みをして、日干しています。「つよきほいろにて、あげ火を一遍取りたるは猶よし。」はどういうことか理解できませんが、日干した茶を最後にほいろで乾燥するのだと考えられます。以上のように1600年代の揉み茶は湯引き殺青、蓆で床揉み、日干製が基本だったようです。
(4)「万金産業袋」(1732年、享保17年)
「万金産業袋」の煎じ茶の記述では、甑で蒸しているので蒸製です。もみ盤で揉んでいます。乾燥は日干と焙炉です。焙炉は乾燥専門で焙炉上で揉む事はありません。
(5)「茶説集成」加藤景孝、「茶誌 宇治茶詳説」山高信離(享保年間、1716~1722年)
享保年間(1716~1722年)に書かれた(D)「茶説集成」加藤景孝、(E)「茶誌 宇治茶詳説」山高信離には、煎じ茶が享保より黒製(鍋炒り、釜炒り)から焙炉製になった事が書かれています。この「焙炉製」が何を意味するのかは書かれていませんが、「薄葉煎茶共焙炉製」と書かれている事より推考すると、ここでの「焙炉製」は釜炒で殺青するのではなく、蒸熱(湯蒸)で殺青する事と、日干するのではなく焙炉で乾燥する事と考えられます。享保年間(1716~1722年)に煎じ茶で湯蒸し製が加わりました。揉み盤で揉み、日干します。最後に焙炉にかけます。
(6)永谷宗円(1738年、元文3年)
多くの書物には、1738年(元文3年)に湯屋谷村の永谷宗円が宇治製煎茶を創始したと書かれています。宇治市史は永谷宗円の創始した煎茶は、①新芽②蒸製③終始焙炉上で揉むの三つを合わせたものと書いています。しかし、永谷宗円自身は書いたものを残していません。永谷宗円煎茶創始の根拠の一つとされている「嘉木歴覧」には、「上茶製法」「上煎茶の由来」と言葉はありますが、永谷宗円がどのような用具を用い、どのような方法で、どのような技術で、「上煎茶」を創始したのかは説明されていません。煎茶製造で①の新芽だけを摘むは、1696年の「農業全書」では新芽と古葉を残らず摘んでいますが、宇治の碾茶製造では新芽だけを摘むのは普通に行われています。永谷宗円の湯屋谷村は宇治から2里(8km)ほどしか離れていないので、永谷宗円は宇治の碾茶栽培、碾茶製造を充分知っていたと考えられます。②の蒸製も碾茶製造では普通に行われていましたし、煎じ茶(揉茶)に於ても享保年間以降は湯蒸しも行われていました。少し不思議に思われる事は永谷宗円が新芽を蒸す時に宇治で行われていた甑に乗せる蒸籠(せいろう)を用いないで、わざわざ梨籠を用いて「梨蒸という上茶製法」と云っている事です。蒸籠を知っているはずなのに何故梨の籠を使用したのか理解に苦しみます。「永谷宗円は蒸しに於ても宇治の真似をしたのではなく、梨蒸という独自の蒸し方を創始した。」と云うように後世の人が永谷宗円を奉る為に作り出した話なのかと思います。③の「終始焙炉の上で揉みながら乾かした。」が永谷宗円独自の方法だと考えられます。それまでの揉み方は、(あ)足揉み…足で踏みつける。(い)床揉み…地面や板の間に蓆を敷き、その上で回転揉みを行う。(う)揉盤揉み…板や竹に荒縄や蓆を巻き付けてその上で回転揉みを行う。というものでした。揉む時は完全に冷揉みです。永谷宗円はそれまでの足揉み、床揉み、揉盤揉みに代わって、両手を合わせて焙炉の上の空中で揉み焙炉に落とすに変えました。この両手で焙炉の上の空中で揉み焙炉に落とすと云う事が永谷宗円の一番の功績であると思います。足揉み、床揉み、もみ盤揉みは体重を掛けて強い力で揉めますが、揉切は空中で両手を合わせる力だけで揉みますから、茶の葉にかかる力は相当少ない圧力になります。それまでの煎じ茶(もみ茶)に較べると相当穏やかな渋味の少ない茶になったと考えられます。又、一切日干乾燥をせず、焙炉乾燥です。焙炉についても書かれていませんが、宇治で使われていた碾茶焙炉であったと考えられます。碾茶焙炉は揉む為の焙炉ではなく、乾かす為の用具です。紙助炭(焙炉紙)ですし、紙助炭の下は渡し竹や細竹の格子です。紙助炭では新芽を紙助炭に押付て、手と紙助炭の間で揉むことは出来ません。安政年間に木枠助炭と鉄の渡し棒(鉄弓、鉄橋)が開発されるまで、焙炉は乾燥専門用具で揉む為の用具ではありませんでした。永谷宗円と宗円の子孫達、そしてその当時の人々は、永谷宗円が全く新しい茶種である「煎茶(せんちゃ)」を創造したと云う認識はありませんでした。それは「嘉木歴覧」にしばしば「上煎茶」と書かれ、天保13年(1842年)の紀州藩への御願い状に「上煎茶の始祖といわれている家柄です。」と書かれているように、永谷宗円の創始した梨蒸の上煎茶は、今迄の煎じ茶より上級の煎じ茶であるという認識です。
(7)玉露製…天保年間(1830~1844)
松尾清之丞の「製茶沿革」には、「天保年間、玉露製の起こるも尚碾茶炉を用い、助炭の如き設けなく、丸竹を炉に架し、竹網を乗せ、上へに炉紙を列し」と書かれ、木枠助炭はまだ発明されていなくて、碾茶焙炉で玉露製が創始されたことが判明します。その「形状は縮團にして」と書かれ、玉の露(たまのつゆ)と名付けられた様に伸びた茶ではなく、縮んだ丸い玉のようなお茶でした。玉露の形状が玉の露(たまのつゆ)から針の露(はりのつゆ)に変わっていくのは、明治20年代、明治30年代です。