(23)粗製濫造時代(明治10年~明治16年)「静岡県茶業史正編」144P明治7年の輸出茶平均相場は百斤に付37円90銭、明治11年は19円67銭で約半額です。製茶は粗製濫造に流れ、日干、陰乾や他物の混入なども行われました。明治16年に米国は贋造製茶輸入禁止条例を発布しました。政府は製茶共進会を開催し、明治17年には茶業組合準則を発布して茶業組合を設立せしめ、粗悪不正茶の取り締まりを行いました。当時の静岡県の手揉製茶法は三重県、滋賀県に劣っていました。
(24)「横浜茶貿易の発展と衰退、服部一馬」「横浜茶業誌」4p明治年間日本茶を「拝見」「看貫」するのは、清国人(中国人)である。日本緑茶はアメリカの消費者の嗜好を考慮して製造されたのではなく、茶の「拝見」をする清国人が高値に評価する茶を目指して製造された。直輸出が増加する明治末までの居留地貿易の時代には、消費地であるアメリカでの販売はすべて外国商社に握られ、日本が日本緑茶の淹れ方、急須の使い方、日本茶の文化などをアメリカの消費者に伝える宣伝活動は博覧会などを除くと殆んど皆無であった。
(25)「葉の焙方、揉方」「共進会報告」62P~65P明治12年(1879年)
明治12年、地方に於いては床揉みが多く、足揉みも半天(日干)もある。宇治製法は手間を要し損であると全国一律に宇治製法が行なわれていた訳ではない。
(26)酒井甚四郎「静岡県茶業史正編」145P146P(明治16年、1883年)
静岡県は三重県(酒井甚四郎)より栽培と手揉み製茶法を習います。当時、輸出用手揉み製茶は三重県のほうが進んでいました。
(27)「倉開流製茶法に就いて」橋山倉吉「茶業雑誌」第30号(明治17年、1884年)
橋山倉吉の転繰(デングリ)は三重県の南勢流デングリ(チリツケデングリ)と富士郡のデングリを折衷改良して明治12,3年頃に出来上がった事が分かります。橋山倉吉の転繰揉は形状の伸長と製茶量の多量を優先し、品質を閑却する傾向がありました。しかし、製茶法は品質よりも形状、効率へ向かいます。橋山倉吉の転繰法は、経済に適い、便宜なる手使いであったので、全国各地に広まりました。デングリは代表的静岡手揉製法です。
(28)「板摺り(いたずり)、板こすり」(明治17年以前、水澤村)
「関西紀行…滋賀県土山」鈴木孫太郎、岩田文吉「茶業界」第6巻第2号(明治44年、1911年)には、「明治十七、八年頃より、形の伸びたるものを喜ぶようになり、勢州地方の職人入り込み、板コスリ等の製法をなすものあるに至れり。」と書かれ、「板コスリ」が明治17、8年頃に伊勢より土山へ導入されたことが分かります。板コクリの前型は炉縁揉み(縁こすり)です。仕上揉みの最終段階で茶を二手に分けて一手づつを両手で含み揉み(こくり)していたものを、短時間に経済的に仕上げ揉みを行うために、両手と焙炉の縁の間に茶を全部はさんで揉みました。この炉縁揉み(炉縁こすり)を改良したのが板摺り(板コクリ)で、両者ともに簡易仕上げ法です。京都府茶業研究所初代所長田辺貢の「茶樹栽培及製茶法」(昭和9年、1934年)には「板摺は宇治地方にても盛んにして殆んど仕上は之に依るも、元は三重県水澤に起こりたるものなり。」とあり、「板コスリ」は明治17年より前に伊勢の水澤村で創始されたことが分かります。決して宇治発祥ではありません。
(29)「製茶法精究伝書」新井誠治郎「中央茶業組合本部報告 第11号」(明治18年、1885年)
明治10年代の全国各地の手揉技術と其製茶が書かれた貴重な文献です。宇治製は揉切製で形状圓撚り、色沢黒青、香味温和で佳です。江州製は長伸を主とする揉切製で、形状は長伸束針、渋味薄くして香味良佳です。駿州製は揉切製にデングリ揉が加わります。形状は扁平にして圓撚りならず。色沢赤黒にして渋味を含み香気薄しです。勢州製は駿州製に稍々似ています。上総製の形状は美なりと雖も色沢暗黒にして香味乏しい。狭山製の形状は扁平萎縮にして、同一ならず。色沢は浅緑にして青臭の気あり。香味に一層の火気を含めりです。デングリ揉はまだ静岡のみです。この当時全国の手揉製法は種々雑多でした。其の為に、茶の形状、色沢、香味も種々雑多で、再製に於て着色し細かい形状に加工しないと同一の大ロットの茶を得ることは出来ませんでした。そして、その再製加工も外商に握られていました。
(30)「開透流製茶製造方法」(松下勘十)16P~20P(明治22年、1889年)
松下勘十の製茶理論です。松下勘十は揉切製は製茶理論にかなっており、内質が良い。転繰製は製茶理論にかなっていない。初期の転繰りは技術が未熟で、品質の良くない製品が多い。天下一は形状だけが天下一で内質は伴っていない。
(31)「静岡県製法勃興時代」「静岡県茶業史正編」146P(明治23年~明治34年)
明治9年の「天下一」、明治17年の「でんぐり」を始めとして、それ以降静岡ではいろいろな手揉手法が考案され、各々が「何々流」を名乗って其製茶技術を競い合いました。多くの流派の大元は近江の前島平次郎で、その弟子から漢人恵助の青澄流、田村宇之吉の田村流、赤堀玉三郎の天下一流、今村茂平の相良流が生まれ、その孫弟子から橋山倉吉の倉開流(転繰揉)、戸塚豊蔵の誘進流(安楽揉)、松下勘十の開頭流の七流派が生まれています。その他、江沢長作の青透流、立花兵吉の教開流、浅羽平九郎の小笠揉切流、川上鎌次郎の川上流、小長谷松五郎の開進流、青山勘蔵の宇治揉切流、柴田作太郎の鳳明流、高山国松の興津流、中村幸四郎の川根揉切流、和田三次郎の宇知太流、海野太七の内牧流、赤堀磯平の小笠流、幾田五一の幾田流など三十数流派が生まれています。これら三十数流派は①川根揉切流のように揉切を主体とする流派と②橋山倉吉の倉開流のように転繰揉を主体とする流派と③天下一製法を主体とする流派と④戸塚豊蔵の安楽揉のような独自の手法を主体とする流派に分かれます。
(32)「輸出向け山城茶の形状の改良」「日出新聞」(明治27年6月12日、1894年)
明治27年、静岡茶が形状が良くて輸出茶に於て好評なので、風味は良いが形状の一定しない山城茶の形状を改良しようとしています。
(33)「海外製茶貿易意見」松本君平(明治28年、1895年)
明治27年の貿易は80%以上外商によるものです。松本は海外市場の需要、嗜好を研究し、その嗜好に合った茶を生産し、それを日本人が直に輸出しなければいけないと云っています。米国に於いての日本茶はコーヒーの27分の1で、飲料のごく一部にしか過ぎない。圧倒的に日本茶の宣伝啓蒙が少ない。その為、米国の消費者で日本茶の真の風味を理解しているものはいない。アメリカに於ける日本茶の悪評判の第1は日本緑茶は不熟不完全で非衛生である。日本茶を再製、着色せざるを得ないのは、日本茶が手揉製で不完全なため、千種万別で色合いを異にし形状も異なり、多量の同一種類が出来ない。そのため、種々雑多の茶類を混合し、再製着色することにより同一様の茶をつくり出そうとした。又、再製で再乾燥しないと長期保存に耐えられなかった。第2は着色されて有害である。第3に機械製茶でない為に不潔である。日本茶を針のような形状に製造していますが、其必要はありません。「茶の目的は形状の美を求むるに非ずして、滋味と香気の発達を主眼とする。」「海外緑茶の消費者は、実際緑茶の形状の、圓きも広きも、短きも長きも、敢て問う所に非らざるなり。」「折角困苦して造り上げたる美形の緑茶は、海外の市場に輸出せらるる前に、盡く折て細末となり、或いは着色せられ而して海外の市場に輸出せられたる時は、既に已に其最初製造せられたる時の針の如き長細き面影は一も認められぬ。」「幾百万の緑茶製造家が無益に力を緑茶の形状に費やすを、気の毒に思う也。」明治28年の時点において、松本君平は抹茶やパウダーは将来大いに希望ある事業であるのを見抜いています。大正13年(1924年)に来日したユーカースは5月19日、20日に京都を視察しました。ユーカースは「来朝以来静岡や三重等を詳細に視察して大いに得る所があったが、特に京都は他地方に於いて見る事の出来ないものを持っている。それは碾茶である。併も之をアイスクリームに応用されたものを賞味することを得たのを喜び、且つ新しい味と価値あるものであるのに驚嘆した。之は帰米後、其高尚で而も雅味に富む日本碾茶の使用を宣伝する云々」と抹茶が世界に有望であると述べました。私はこれまで、このユーカースが世界で初めて抹茶の優位性に気づいた人物だと思っていました。しかし、この松本君平はユーカースの29年前の明治28年の時点において、抹茶やパウダーは将来大いに希望ある事業であるのを見抜いています。今から123年も前の事です。松本君平はすごいですね。