手揉み製茶の歴史 9【大正】

(69)「管見録」牧ノ原茶業部 浅羽光次郎「茶業界」第9巻第1号(大正3年、1914年)
手揉製茶の基準は揉切です。「技術の如きも派手な転繰の手使は争そうて練習するも、真味ある揉切には一向頓着せざるが故に、完全な揉切の出来るものは暁天の星にて、誠に惜しむべきことなり。」と云っています。

 

(70)「宇治玉露の製法及焙手(職工)の奨励」牧の原茶業部 川崎正一「茶業界」第9巻第9号
(大正3年、1914年)
宇治で板擦りが行われ始めたのは、大正3年(1914年)の十数年前、即ち明治30年代であることが判明する。玉露の上等品は形状を付するが中等品以下は形状を作らない。転繰(でんぐり)も伝わっているが、只手休めに行う。


(71)「好い茶を高く売れ…消費者に日本茶の真味を教えよ」松下幸作「茶業界」第10巻第8号(大正4年、1915年)
「米国の小売商は何れも小売値段を一定し、容易に変更せざる習慣がある。米国の飲料界に於ける日本茶の地位と云うものは極めて低いものである。米人の大部分は緑茶の飲み方を知らない。緑茶と云う名の下に日本茶も支那茶も印度錫蘭茶も混合しておる。日本茶の真味真価は永久に彼等の知る所とならずして終わらねばならぬ。日本緑茶を珈琲に比すれば百分の一にも達せぬほどの少量である。日本緑茶は高くても良い茶を売り込まねばならぬ。」と松下幸作は書いています。

 

(72)「狭山茶瞥見記」瀧 閑村「茶業界」第10巻第10号(大正4年、1915年)
狭山の繁田式製茶法は揉切製法です。「一、露切り、二、回転揉、三、玉解撚り切揉、四、中上げ、五、早手撚り切揉、六、葉揃撚り切揉、七、葉揃揉、八、仕上揉、九、火入(止め火)」回転揉はありますが、デングリ揉、板コスリはありません。大正4年当時の狭山茶商は機械製茶に消極的です。「狭山茶は由来火入れを以て名声を抜きんでている。宇治茶の香味と静岡茶の形状と、狭山茶の乾燥とを打って一団としたものが理想の製茶であらねばならぬ。」と云っています。

 

(73)「新手揉製茶法解説」16p榛原郡茶業組合(大正4年、1915年)
大正4年榛原郡茶業組合の「緑茶製造法」で静岡方式の手揉製茶法は完成します。「普通製…蒸葉一貫匁…釜茶向(2時間乃至2時間半)、籠茶向(3時間乃至3時間半)下揉み{葉乾…回転揉…玉解揉…中上げ}上げ揉{中切揉…転繰揉(散し転繰揉…強力転繰揉)…仕上揉(コクリ)…乾燥}」大正4年の「緑茶製造法」も「釜茶向」「籠茶向」と書いてあるように輸出向製茶法です。明治38年の大林雄也の「38年式製法」と大正4年の榛原郡の「緑茶製造法」と現在の「手揉製茶法基準」はほぼ同じ製茶手法です。

 

(74)「揉切、転繰、ソグリ揉」「茶業全書」162p~164p(大正4年、1915年)
揉切仕上揉は「揉切法は香気芳烈にして水色清澄、且貯蔵して変色変質する事なし。」ですが、揉切の手使い習熟は難しい。デングリは「労力を要する事割合に少なく形状を伸直せしむる操作なり。」ですが、蒸れをおこすことが多い。今では伝える人のいない宇治の「ソグリ」揉みは復活してほしい揉み方です。「製茶の色沢、形状を良好ならしむる為」に板擦りを行うことがあると書かれています。香味を良好ならしむる為ではありません。

 

(75)「優良茶製造法試験」「茶業全書」167p~168p(大正4年、1915年)
明治40年にも、宇治、狭山、川根より優秀な焙炉師を集めて揉切製手揉の研究をしています。静岡は大半がデングリ製だったのですが、優良茶製造の研究のため揉切製の試験を続けていました。大正4年当時、宇治、狭山ではデングリを行っていません。宇治の「宙揉」も復活したい揉み方です。

 

(76)「米人は如何に日本茶を観察する乎」米国ニューヨーク市 エス、リビングストン、ダビス「茶業界」第11巻第2号(大正5年、1916年)
米人の茶の買い方。「茶葉の体裁及格好は真にその品別の表示となるものなり。」「形細かにして良く揉まれ且粒の揃いたる針状形のものが上等品」と云う様に外観、形状で評価していました。しかし、「日本にては体裁の美しき割合風味に乏しきものと、体裁は左のみ佳ならざるも卓絶せる香味ある茶を産出する地方とあり。」と本質も理解していました。

 

(77)「緑茶手揉法研究規定」「茶業報告第36回」123P~128P(茶業組合中央会議所)(大正5年、1916年)
「大正5年、茶業組合中央会議所の緑茶手揉製法です。製造手順1、露切、2、葉振、3、葉振揉、4、揉切、5、葉挫回転揉、6、横回転揉、7、練り回転揉、8、揉切玉解、9、中上げ、10、一手拾い揉切、11、二手拾い揉切、12、三手拾い揉切、13、葉揃揉、14、コクリ、15、転繰揉、16、コクリ、17、揉切仕上げ。この緑茶製造手順は、「専ら外輸出品に適する」煎茶の製造法です。」「内地用には碾茶、玉露茶、及び煎茶あり。殊に玉露茶煎茶は色香を貴ぶ外、形状の伸長を嫌う等の点もありて、畢竟再製を用いざる故に茲に論ぜず。」と大正5年当時、玉露、煎茶色香を貴び、形状の伸長を嫌うと永谷宗円の揉切製の茶と同じく、やや曲がった形が本物とされていたことの証明です。

 

(78)「揉切製茶研究会」静岡県茶業組合聯合会議所「茶業界」第11巻第7号(大正5年、1916年)
静岡県茶業組合聯合会議所は、機械製が大勢を占めつつある大正五年に、衰退しかけている手揉製茶、それも揉切製造法技術の研究会を開催しています。会議所の中に「揉切製が製茶の基本」だと判っている人物がいたと云うことでしょう。素晴らしいですね。

 

(79)「中央会議所製法統一競技会に就いて」 鈴木孫太郎「茶業界」第12巻第8号(大正6年、1917年)
鈴木孫太郎は中央会の「板ゴクリは茶の香味色沢を良好ならしむるものだ」と云う見解に疑問を呈しています。

 

(80)「青年茶業者に告ぐ」原崎源作「茶業界」第16巻第3号(大正10年、1921年)
米国に輸出された日本茶が着色された理由は、輸出当初在留外商は、其道に通じている支那人を連れて来たり、原茶の買入より茶の再製荷造迄一切の事を彼らに任せ、一から十まで支那流に仕立てたのであるから、支那緑茶の着色したものと寸分違わぬものが出来たのである。

 

(81)「茶は観賞品に非ず…内質本位を以て総てに当たれ」瀧井國平「京都茶業界」(大正10年、1921年)第3巻第2号
大正8年(1919年)に創刊された京都の茶業雑誌「京都茶業界」の創刊者であり主筆である瀧井國平の一文です。瀧井國平は静岡県志太地方出身で大正10年当時は立命館大学夜間の法科2年で23歳です。瀧井國平が京都府茶業連合会議所を動かして創刊した茶業雑誌「京都茶業界」は、大正時代、昭和戦前期の京都茶業界をいきいきと生の言葉で伝える素晴らしい雑誌です。私が「抹茶の研究」を書く事が出来たのは「京都茶業界」(瀧井國平)のおかげです。瀧井は「海外貿易の結果、茶の内質を軽視し、形状色沢を一見して茶の価値、価格を決めるようになり、形状を主眼とする機械を発明し、品評会は形状主義になった。」しかし、「茶は美術品に非ず」「茶は内質本位である」と云っています。23歳で之を云えるのはすごいですね。

 

(82)「宇治へ一日の旅」鈴木孫太郎「茶業界」第16巻第6号(大正10年、1921年)
大正10年5月21日、鈴木孫太郎が我が家(祖父善助、41歳、当時は宇治郡茶業組合長)へ視察に来ています。ビックリ。当時我が家は玉露も碾茶も手製です。濃茶は荒茶の十分の一位しかとれません。玉露の手揉は、葉干し(10~12分)、軽き回転揉み(60分)、中揚げ、揉切、板コクリです。近年玉露の形状とか艶とか云うものがやかましく云われる様になってから、板コクリをやる様になった。木幡の宇治郡茶業組合の試験場では粗揉機応用の玉露製の研究しています。

 

(83)「審査の結果から見た製茶法」安倍郡茶業組合技手 鈴木孫太郎「茶業界」第16巻第12号(大正10年、1921年)
形状を良く製するには、香味を幾分犠牲としなければならぬ。

 

(84)「製茶法二則」鈴木孫太郎「茶業界」第17巻第5号(大正11年、1922年)
手揉製茶でも機械製茶でも、必要以外の力を掛けることは禁物です。

 

(85)「日本茶の現在及び将来」繁田武平「茶業界」第17巻第11号(大正11年、1922年)
大正11年の手揉技術は朝宮が一番で狭山が二番だった。

 

 

戻る  /  次へ