お抹茶のすべて 11-2 【「雁ケ音」の研究】

3、上田秋成「清風琑言」にみる「雁がね」
「清風琑言」は江戸時代の国学者上田秋成の著書で、わが国の煎茶書として代表的なものです。
寛政6年(1794年)に刊行され、煎茶の普及を目的とし、抹茶に対して批判的な立場から書かれています。
「地霊」…「茶は宇治の本郷を最地とし、大鳳寺・木幡是に次ぎ、官園外園、蒸焙の製尤も精妙也。小倉寺の内・池の尾・田原郷の村里、共に園畝を開きて盛んなリ。」と書かれ、良い茶の生産地として宇治郷が最高で、大鳳寺村、木幡村がこれに次ぎ、小倉村、池の尾村、田原村も盛んであると書いています。
「品解」…「上製の品題(銘)少なからず。初、後の昔、祝いは三絶なり。祖母昔(ばばむかし)、祝の白、しろ昔、若森、楪葉(ゆずりは)、いのむかし、一の白、花の白、雁がね、鱗形(うろこかた)、初鷹爪(はつたかづめ)、丸の白、綾の森、一等の名、家々に競い出す。」と書かれ、上製即ちお濃茶(袋茶)の茶銘が並べられています。
上田秋成も「雁がね」を上製(お濃茶)の品銘としており、前に見た袋茶の茶銘とほぼ同じものを書いています。
「又、埋蔵(つめ)の茶、別儀、上揃(うわそそり)よりして品第少なからず。」と書かれていますが、茶壺の袋茶の周りに詰められた詰め茶(お薄茶)の銘は、別儀(べちぎ)、揃(そそり)など数種類で茶名ではなく、茶の等級を表すもので、その種類も「多からず。」が正しいと思います。
「煎品(せんじひん)は、折れ鷹、白折れ、雁がね等、上製の余材也見ゆ。」と記され、急須で煎じて飲む「折れ鷹、白折れ、雁がね」の品名のお茶は、上製、即ちお濃茶用碾茶の余り物であると書かれています。お濃茶の品銘とされた「雁がね」が「煎品(せんじひん)」の品名としても登場しています。
「折れ」(おれ)とは碾茶荒茶を臼で挽けるお濃茶用碾茶、お薄用碾茶に仕立てる時に出てくる出物のことで、茶の葉の葉脈や、茶の葉であっても葉脈や葉柄近くの葉肉が厚くて茶臼で挽けない硬く重たい部分のことです。
昔は手挽きの茶臼であった為に上臼が現在より軽く、茶の葉の硬い部分は茶臼が踊って細かい抹茶が挽けませんでした。
そのために、現在の仕立てよりより丁寧に精撰されたため、仕上げ碾茶の歩留まりは約5割程度で、葉脈や重たい硬い葉などの「折れ」が現在より大量に仕立てられ、この「折れ」が「煎品」として「御茶所」(茶の小売店)で販売されました。

4、江戸時代の引き札にみる「雁がね」
平成27年秋、宇治市歴史資料館において「宇治茶、トップブランドの成立と展開」という特別展が開催されました。その特別展で発行された冊子には素晴らしい史料や写真が掲載されています。
その中に江戸時代後期(1800年代)の「引札」(ひきふだ)の写真が20枚もあります。引札とはお茶小売店の定価表のことです。
ほとんどの引札の最初には「宇治信楽諸国御茶所」と書かれています。「宇治信楽諸国御茶所」というフレーズは、江戸時代のお茶小売店のキャッチフレーズだったようです。
これを見ると、当時のトップブランドは宇治で、信楽がそれに次ぎ、現在日本一の生産量の静岡は諸国に入っているのが分かります。どの引札も最上段に「御薄茶」「御濃茶」と薄葉の茶銘と価格が書かれています。もちろん、抹茶での販売ではなくて、薄葉(碾茶)での販売です。
「御濃茶」の茶銘は「初昔」「祝ノ白」など宇治の御茶師が袋茶に使用していたものを使っています。
「雁がね」を「御濃茶」の茶銘に使っている引札はありません。「御薄茶」の茶銘は「別儀」(べちぎ、べつぎ)「揃」(そそり)という等級が使われています。
その次に書かれているのは「濃茶薄茶精撰御煎茶」(こいちゃうすちゃせいせんおんせんじちゃ)「濃茶園御煎茶」(こいちゃえんおんせんじちゃ)「薄茶園御煎茶」(うすちゃえんおんせんじちゃ)という現在の茶品名にはない茶種です。この「濃茶園煎茶」を「こいちゃえんせんちゃ」として、お濃茶を造る茶園の新芽から製造した煎茶(せんちゃ)と理解するのは間違っています。
その茶銘を見ると、「白折」(しらおれ)「雁ケ音」「鷹ノ爪」「折鷹」などになっていますので、これは碾茶荒茶を仕立てたときで出る「折物」(おれもの)と言われるものです。上田秋成の「清風琑言」で「煎品」(せんじひん)とされたものと同じです。
引札時代には、「雁ケ音」は「御濃茶」の品名から外されて、「精撰御煎茶」(せいせんおんせんじちゃ)の品名として使用されています。
その次に書かれているのが「宇治、信楽、御煎茶」でこの「御煎茶」は(おんせんちゃ)で現在の煎茶と同じもので、1738年に田原村湯屋谷の永谷宗円が創った青製煎茶です。引札の下段の方には、「諸国御煎茶」「日向、熊野、御煎茶」「日向、丹波、御番茶」などと、宇治、信楽以外の煎茶や番茶が載せられています。
1830年代に創製された「玉露」、「玉露製」は、江戸時代の引札には1枚の例外を除いて載っていません。
その1枚の例外は三都(京都、江戸、大坂)の「御茶所」の引札ではなく、江戸の山本嘉兵衛(山本山)の宇治茶仕入れ所の一つであった山城国綴喜郡奈島の島本徳次郎の引札で嘉永6年(1853)のものです。玉露が全国的に引札や定価表に登場するのは明治になってからのことです。

5、「雁ケ音」のその後
明治時代に入ると、各地の引札、定価表に玉露製、玉露が現れます。江戸時代の引札で「御煎茶」(おんせんじちゃ)と同じ一つの茶種部門で販売されていた「煎茶」(せんちゃ)「折物」「葉物」が、玉露製の出現でそれぞれ別々の茶種部門で販売されるようになりました。
「雁ゲ音」は「折物」「折物製」「茎もの」の中に入れられており、玉露の茎ではなく、江戸時代と同じ薄葉の出物です。(今日までの私の研究では、明治、大正、昭和戦前期の定価表を史料として蒐集して、それを検討するところまでいっていませんので、これ以降は私の想像です。)
それではいつ頃から玉露の茎や煎茶の茎が「雁ケ音」と呼ばれるようになったのでしょうか?それを解く大きな鍵は「手撰り(てより)」と「服部式電気選別機(略して電撰)」にあります。
茶撰り(ちゃより)は昔から女性の仕事で、撰り娘(よりこ)さんが手で茶の茎や黄葉を撰っていました。
その女性の仕事を奪うきっかけとなったのが、昭和10年(1935年)に久世郡宇治町白川の服部善一が発明した「清電的茶葉選別装置」略して「電撰(でんせん)」でした。茶葉と茎との帯電差を利用した機械で、手作業のように完全ではありませんが能率的に茶撰りができるようになりました。
それまで手撰りで撰られた茎はほぼ完全に茎だけになりましたが、電撰で撰った茎には甚粉や一葉目の光った細かい茶が多く混じるようになりました。茎茶(雁音)が非常に美味しくなったため、それまであまり販売されずに焙じ茶の原料になっていた茎茶が小売店で良く売れるようになりました。手撰りで撰られた茎は、完全に茎だけ撰られたために急須で淹れてもおいしくなく、消費者に売れないものでした。この価格の安い茎を焙じて茎焙じ茶として売り出したのが、金沢の林屋で明治35年(1902年)のことでした。
大正時代には水力発電による電気が通じ、茶臼を機械で廻すことができるようになります。それにともなって碾茶荒茶の仕立て方が変わり、「折物」「葉物」として消費者に販売されてきた出物の量が少なくなります。
碾茶荒茶の内、茶臼で挽ける割合が多くなりました。確定的な史料はまだ手にしていませんが、玉露や上級煎茶の茎茶に「雁ケ音」や「白折」の茶銘が使われるのは案外に遅く、機械茶臼が廻り出した大正時代か、服部の「電撰」が使われだした昭和戦前期ではないかと考えています。

6、結論
「雁ケ音」は最初お濃茶(袋茶)の茶銘であったが、その後「煎品」=「精撰御煎茶」=「折物」の茶銘としても使われるようになり、「折物」の量が少なくなり、玉露の茎が売れるようになって玉露の茎の茶銘として使われるようになった。(明治以降については、もう少し研究を続けます。「雁ケ音」「白折」「別儀」「揃」「初昔」「祝の白」「池の尾」「正喜撰」などの言葉は商標登録されていないと思いますので、誰でも自由に使えると思いますが、その言葉の本来の歴史的な意味を理解して使っていただきたいと思います。)

資料写真・解説に続きます。

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