お抹茶のすべて 7 【「抹茶問屋の仕事」その1】

読者の皆様、こんにちは。
1月号では「宇治煎茶の主産地和束町はいかにして宇治碾茶の主産地になったか?」、2月号では「和束町碾茶の現状」について、3月号4月号5月号6月号では「抹茶の歴史」について書かせていただきました。
7月号では「抹茶問屋の仕事」その1についてお話したいと思います。


1、茶況
今日は平成28年5月29日(日)です。4月20日に始まった平成28年の京都茶市場の揉み茶の入札は5月28日(土)に17回目の入札が行われ刈直しを残しほぼ終了状態です。これまでの平均価格は煎茶3040円、かぶせ3058円、ハサミ刈玉露4640円です。煎茶は前年同日対比で数量は80.5%、金額は89.0%、平均単価は110.7%となっています。
碾茶の入札は5月13日に始まり、5月27日(金)に7回目の入札が行われました。約6割が終了し、6月10日(金)まで後6回の入札予定が決まっています。これまでの平均価格は手摘み碾茶11752円、ハサミ刈碾茶4693円です。ハサミ刈碾茶は前年同日対比で数量は104.2%。金額は100.6%、平均単価は96.5%です。
昨年度の碾茶平均単価は、品質が悪いのにかかわらず20%以上高騰しました。本年度の平均単価は3.5%しか下落していませんが、品質が良いので実質1割以上下落したような感じがします。数量の伸びは現在4.2%ですが、最終的には1割は伸びそうです。その反面、煎茶、かぶせの数量が2割も減少しています。

2、宇治抹茶問屋の成り立ち…銘茶製造販売
現在、京都府茶協同組合加盟の130社のうち抹茶問屋は約30社です。
宇治市内に約15社と宇治市以外に約15社があります。30社の前身はほとんどが元茶生産家です。
茶問屋の創業時期は幕末から明治、大正時代が多いようです。明治維新により抹茶の最大需要者であった大名がいなくなり、約50家あった宇治茶師が数家を残してほとんど姿を消したのに変わって、茶農家が問屋業を創業しました。(私の店も江戸時代からの茶農家で、明治30年頃に茶問屋を開業し、茶農家兼茶問屋になっています。)
しかし、明治時代は抹茶の需要は非常に少なく、それまで碾茶に焙っていた葉を揉んだ玉露と煎茶を中心にした製造販売でした。明治時代後期、山城の碾茶の生産量平均41トンに対して、玉露は平均215トンで約5倍の生産量です。玉露が非常に売れました。
明治時代、私の住む宇治郡宇治村木幡では、東京の山本山、名古屋の升半横井、金沢の林屋、京都のちきりや秋山、大阪の稲葉先春園など全国の大消費地の有名茶店が木幡に自園を購入し、製造工場と仕入れ所を設けていました。それは、宇治木幡に自園を持っているということが、私の店は日本一の品質の玉露を販売していますという宣伝になった為です。
玉露の売れ行きが鈍って、逆に抹茶が売れ出すのは大正時代に入ってからです。茶業組合中央会議所の「日本内地に於ける製茶事情」(大正15年)には「玉露は漸次衰退し之に代りて碾茶の需要漸増の傾向なり。渡辺一保堂茶舗」などと書かれています。京都において碾茶の生産量が玉露の生産量を追い抜くのは昭和60年(1985年)以降のことです。今でも自園を持ち、碾茶製造を続けている宇治茶問屋が数多くあります。

3、碾茶の仕入れ
(ア)碾茶の入札
奈良県の茶市場で碾茶の入札が始まるまでは、日本で碾茶の入札を行っているのは京都茶市場だけでした。
京都に茶市場が出来たのは昭和49年(1974年)で、それまで碾茶仕入れはほとんどが入れ着け(イレツケ)でした。
私が茶業に入ったのは昭和48年4月で、オイルショックの年でした。当時、京都ではハサミ刈りの安い碾茶の生産は無く、全て手摘み碾茶だったため、ハサミ刈りの碾茶は三河(西尾)から仕入れていました。
入れ着けで入ってくる碾茶はほとんどが在来実生(雑種)で、品種茶はあさひ、さみどり、やぶきた、が少しだけありました。
入れ着けの生産者は伏見区の日野が一軒あるだけでその他は全て六地蔵から大鳳寺までの東宇治の生産者でした。
そのため、平成元年に茶市場の入札に参加するまでの15年間は、京都の碾茶産地のうち東宇治の碾茶しか知らない状態でした。平成元年から入札に参加してみたものの、最初の4,5年はほとんど買えませんでした。
その当時、碾茶の入札に来られるお茶屋の顔ぶれは、堀井信夫さん、上林春松さん、小山洋一さん、北川弘さん、鳥羽伊さん、共栄の中村さん、芳香園のみのやん等々、皆さん大先輩ばかりで、今から思うと錚々たる凄いメンバーでした。
煎茶や玉露の入札は息子や従業員に任せても、碾茶だけはその店の主人が入札に来られた。新米の私の出る幕などない。今とは、皆さん買いっぷりが違いました。
山政さんが手に碾茶の見本缶を2,3個のせて拝見盆の前を歩かれると、もうそこは見てもしょうがないという買いっぷりでした。生産地を知らない、生産者を知らない、東宇治の碾茶しか知らなかった筆者では、太刀打ちの仕様もない状態でした。
茶市場の入札にも慣れ、生産地や生産者の特徴を覚え、やっと買わしてもらえるようになったのは平成6,7年からでした。
この頃から、手摘みばかりだった碾茶の入札にハサミ刈り碾茶が増えだした。両丹は元々ハサミ刈りだったが、宇治田原町、和束町、山城町のハサミ刈りが入札されるようになりました。
ハサミ刈り碾茶と2茶碾茶が爆発的に増加しだした転機は、平成8年のいわゆる「ハーゲンダッツショック」です。
8年の春、仲間の業者から安いハサミ刈りの碾茶が余っていたら廻してと頼まれました。もうすぐ新茶なので、今古(ヒネ)を売っても新茶で買えるからいいよと在庫をどんどん廻してあげました。
平成8年5月、入札が始まりました。煎茶の入札値段は最初が一番高くて、製造が進むにつれて下降していくのに対して、碾茶の値段は、最初はあまり品質が良くないために落札値は安く、だんだん高くなって行くのが普通です。しかし、平成8年は最初から小倉のK園の入札値はものすごく高く、京都茶市場の碾茶を全て買い占める勢いでした。
私の入札値と2000円も3000円もかけ離れていて、前年度5000円のハサミが7000円もしました。K園にハーゲンダッツから大量の発注が入った為でした。この年の2茶碾茶は4000円を超える高値も珍しくありませんでした。この「ハーゲンショック」以降、揉み茶から碾茶生産に切り替える生産家が増えだしました。

 

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