(13)「明治38年式製法」「揉切、含揉、デングリ、縁こすり、板ゴクリ」
大林雄也の「茶業講話」(明治35年、1902年)には、「振り揉より揉切、含揉とをやって行けば遂に手遣い低くなりて艶が出る。青く艶が出ると含揉みで行く。此れが上等茶の製法で、又相当に揉切、相当に乾いたら「デングリ」をするも並製経済向なら或いは致し方ない。或はまた「縁こすり」とて助炭端へ茶を揃えて斯うこくって行く法もあり。「板ゴクリ」と申す略法もあります。総て仕上師の頭脳の働きである。縁こすりは3分4分もコスって行くとシットリとする。それより又揉切に移る。外乾きを見て又炉縁コスリをやる。茎が細くなって平等に乾いている下揉法なれば仕上げはデングリなり含揉なり何なり便宜法で行けば宜しい。若し30円のものを40円に立派に売れる様にするには揉切と含揉が適当なリ。…要する所仕上げに高い給金を払って下揉に下手な職人を使うのは誤っている。」と書かれています。
明治35年(1902年)の仕上揉みは、揉切、含揉(コクリ)、デングリ、縁こすり(炉縁揉み)、板ゴクリ(板擦り)が揃っていたようです。大林雄也は「デングリ」「縁コスリ」「板ゴクリ」は並製経済向の簡略法、便宜法であると言っています。また、上等茶は揉切と含揉が適当だと言っています。大林雄也等は明治38年(1905年)に多くの手揉流派の手揉手法を統一して、輸出向改良模範茶手揉法として明治38年式製法を制定しました。
(14)「京都に於ける手揉手法、青山勘蔵」「静岡県茶業史正編」157P~(明治40年、1907年)
「明治39年、静岡県茶業研究会創立。…翌明治40年各種の試験をなしたるが、就中宇治より青山勘蔵氏を、狭山より島崎七五郎氏を、川根より大石幸七氏を聘して各地製法の比較研究をなしたるが如き、本県茶製法改良の根底を作りたるものなり。宇治方法…本製法は京都府久世郡宇治地方に於いて現今一般に行わるる緑茶製造の普通方法にして、主として内地向に適合したる揉切製法による。」「青山勘蔵(宇治)…3、小焙炉を短時間に製造する方針を取るべし。然する時は形状の伸は十分ならざるも、風味よく丸く捻れたる製茶を得べし5、露切(葉乾)は充分になし、撚り込は徐々に力を加え、始終水心の均一なることに心掛け、粘り気の生じたる時に至りて強力を加え、心水(しんみず)を絞り、水心(みずこころ)の均一を計り、玉解をなし、低手に頻繁に揉切を為すべし。之は最も大切なる操作にして、茶を上乾きせしめざるよう最善の注意を為すべし。…7、上げ揉は火力強ければ二た手に分けて、乾燥と捻力の調和を計り、火の弱き時は一手に仕上ぐ、然れども量を多く仕上ぐる時は、形状扁平に陥り易きが故に、最後には二手分けとなすを利とす。」
明治40年(1907年)に青山勘蔵が教えた揉切宇治製法です。揉切宇治製法の仕上揉みには「デングリ」、「縁こすり」、「板摺り」はありません。現在(令和4年)の宇治製法手揉保存会の手揉(京都府茶業会議所ホームページ)には、明治40年の青山勘蔵の揉切宇治製法にはなかった「重回転揉み」、「片手まくり」、「デングリ」、「板ずり」が取り入れられています。これら4つの手法は静岡、伊勢で発達した輸出向き製法で、元来国内向き製法である揉切宇治製法ではありません。
現在の宇治製法の解説文には「でんぐり(アイセイ)」と書かれています。この(アイセイ)という言葉の意味する所は、この「でんぐり」は宇治製法ではなく、静岡の輸出向け製法を合製(あいせい)したものですという意味です。また現在の宇治製法の解説文には、「板ずり」は「宇治製法だけに見られる最終仕上工程です。」と書かれています。「板ずり」は、令和の現在では宇治にしか残っていない仕上工程ですが、明治時代には静岡、狭山、伊勢など全国各地で行われていた工程です。しかも、宇治で発祥した工程ではなく、京都府茶業研究所初代所長の田辺貢が昭和9年に「元は三重県水澤に起こりたるものなり。」と書いている様に、炉縁揉みと板摺りは伊勢発祥です。
また、明治37年(1904年)には、京都、滋賀、奈良、三重の一府三県茶業組合聯合協議会において、「従来の板揉みと称する製造を禁止する。」と決議されています。京都の揉切宇治製法は、永谷宗円が1738年に創始し、少なくとも1907年まで続けられてきた、伊勢や静岡の輸出向製法を取り入れない本来の永谷宗円の揉切宇治製法(国内向宇治製法)に戻るべきだと思います。
「手揉製法の進展」のまとめ
手揉手法は、最初は宗円の揉切製だったのですが、宇治、近江、伊勢で新しい手法が加えられて静岡に伝わりました。(9)の伊勢の岩吉は南勢流と云われる立手葉揃揉を伝えました。(10)の前島平次郎は、回転揉みと含み揉み(コクリ)を伝えました。
(11)の天下一製法は明治9年に富士郡の野村一郎氏方で創始されています。そして(12)の「デングリ」は明治12,3年頃橋山倉吉が作り出しました。
(13)の明治35年(1902年)の仕上揉みには、揉切、含揉(コクリ)、デングリ、縁こすり(炉縁揉み)、板ゴクリ(板擦り)が揃っていたようです。大林雄也は輸出向改良模範茶手揉法として明治38年式製法を提唱しました。
(14)の青山勘蔵の手揉手法は本来の揉切宇治製法(国内向)です。京都の手揉は本来の姿に戻るべきだと思います。精揉機は手揉の仕上工程を機械化したものなので、明治40年に宇治の青山勘蔵が教えた本来の揉切宇治製法では精揉機は誕生しないことになるかもしれません。伊勢と静岡で発展した海外輸出向け手揉製茶の仕上工程である含揉(コクリ)、転繰(デングリ)、縁こすり(炉縁揉み)、板ゴクリ(板擦り)の操作を機械化することにより精揉機は誕生しました。