精揉機の魅力(3-2)

(17)新井誠治郎は「製茶各法精究伝書」「中央茶業組合本部報告第11号」明治18年(1885年)で全国各地の製茶法とその形状を次のように書いています。
「宇治製…生葉を能く蒸し、又能く醒まして、其の六、七百目を焙炉に掛け、能く葉打をなし、漸々にして之を撚る。又撚り渡れは十分の力にて6分頃迄撚り切るなり。尚7分頃に至れば二手三手揃えては撚り切り、亦揃えては撚り切るなり。而して8分頃に至れば十二分の力にて撚り付るなり。9分頃に至れば即ち二番焙炉に移して乾かすなり。此の形状は圓撚りにして、色沢黒青なり。香味温和にて佳なり。是れ宇治製の方法也。」「江州製…生葉を能く蒸し、6分頃迄は宇治製に替わることなし。此の製法は長伸を主とするが故に、揃手を専一とし、撚り切ること四五手に一手なり。又8分頃に至れば能く揃えて十二分の力にて撚り付け、之を二番焙炉に移し乾かす。此の形状は長伸束針の如し。渋味薄くして香味良佳なり。是れ江州製の方法也。」「駿州製…5分頃迄は江州製に替わることなし。6分頃に至れば揃えて撚り切ること四五手に一手なり。7分頃に至ればデングリ揉みと称え能く揃えて焙炉の上にて手の内に纏め、助炭の火熱を呼びて柔らげ撚り付ける。而して8、9分に至れば二番焙炉に移し乾す。此の形状は扁平にして圓撚りならず。色沢赤黒にして渋味を含み香気薄し。」「勢州製の如きも駿州製に次て稍々似たる者也。」「狭山製…蒸をなし能く醒まし焙炉に掛け、助炭の湿気を待たす、又青汁の出るも厭はずして十分の力にて6分頃まで撚る。之を焙炉より出し、中ふきをなし、剛葉又は骨を拾い、之を焙炉に移し、撚りながら乾す。其の形状扁平萎縮にして、同一ならず。色沢は浅緑にして青臭の気あり。香味に一層の火気を含めり。但粉末少なからず。其製法は再焙貯蔵を主とするが故に色沢の変換することなし。之が狭山製の方法なり。但し焙炉一個はたか火にて製す。」
明治18年の全国各地の手揉技術と製茶品質が書かれた貴重な文献です。宇治製は揉切製で形状圓撚り、色沢黒青、香味温和で佳です。江州製は長伸を主とする揉切製で、形状は長伸束針、渋味薄くして香味良佳です。駿州製は揉切製にデングリ揉が加わります。形状は扁平にして圓撚りならず。色沢赤黒にして渋味を含み香気薄しです。勢州製は駿州製に稍々似ています。上総製の形状は美なりと雖も色沢暗黒にして香味乏しい。狭山製の形状は扁平萎縮にして、同一ならず。色沢は浅緑にして青臭の気あり。香味に一層の火気を含めりです。デングリ揉はまだ静岡のみです。この当時全国の手揉製法は種々雑多でした。其の為に、茶の形状、色沢、香味も種々雑多で、再製に於て着色し細かい形状に加工しないと同一の大ロットの茶を得ることは出来ませんでした。そして、その再製加工も居留地の外商に握られていました。

(18)明治19年(1886年)「中央茶業組合本部報告 第30号」の「明治19年度各府県茶業取締所製茶見本品品評記」です。品評委員は大谷嘉兵衛、山西春根外8名、立会人多田元吉です。
「千葉県、形状短縮にして軽ろし。短縮せざる様堅く揉捻することを勉べし。滋賀県、形状伸ぶるも稍太。輸出向きは形状の細伸なるを嗜好すれば宜しく製法に注意すべし。静岡県、外国需用に適品なれど、蒸及火度等に注意あるべし。三重県、形状伸ぶれど太し。今一層形状の細く堅捻を勉むべし。鹿児島県、形状短縮にて玉あり。一層形状に注意せんことを要す。福岡県、形状縮みて玉あり。形状の玉形且つ縮みてあるを以て価値を損せり。佐賀県、形状丸くして玉の如し。京都府、形状砕折れして軽ろし。輸出用品なれども製法に手を尽くし過ぎたるが故に、形状砕折れして体裁を失せり。神奈川県、形状少しく縮めり。なるべくは形状の短縮ならざる様注意すべし。東京府、形状縮めり。短所は形状の不揃いなるにあり。埼玉県、形状適。今一層細く且つ伸ぶれば最も可なり。」
明治19年(1886年)、各府県茶業取締所33府県が提出した製茶見本品の品評記により、当時の製茶が判明します。形状についての指摘がほとんどです。33点中適は4点、並は4点で残り25点は多くの摘要を書かれています。一番多い指摘は茶の形状が短縮していると云う指摘で約半数の15点が指摘されています。その次に多いのが形状が丸くて玉のようである、玉がいっぱい混じっているという指摘で5点あります。ということで、形の伸びていない製茶が非常に多かった事が分かります。又伸びてはいるが太いと指摘されたものが3点あります。また軽いと指摘されている茶が2点あります。品評者は海外輸出向きの製茶は、堅く細く長く伸びた形状でなければならないと云っています。明治19年以降、日本の製茶は堅細長伸の形状を目指すことが求められました。海外輸出製茶にとって、此の堅細長伸の形状は最低限必要なもので、味と香りは二の次にされていました。日本の製茶はこれ以降全体が形状の堅細長伸を目指していくことになります。明治10年代、20年代、日本政府や中央茶業組合が海外輸出向製茶を推進した理由は、当時の日本の製茶数量の約8割以上が海外輸出向けだったことによります。絹、生糸とともに製茶は輸出の最重要品目だったのです。4月号は茶業統計によって、明治の製茶と海外輸出を調べます。


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