1月号は「永谷宗円」「青製」「木枠助炭」、2月号は「手揉手法の進展」、3月号は「全国各地の製茶」について調べました。4月号は「茶業統計」を調べます。
「7」茶業統計
精揉機の歴史を考察するうえで、明治、大正時代の茶の生産統計と輸出統計を研究することは非常に大切です。ここでは、昭和44年(1969年)に農林省農林経済局統計調査部が発行した「茶業累年統計表」(明治16年~昭和43年)と大正15年(1926年)に静岡県茶業組合聯合会議所が発行した「静岡県茶業史」に掲載された統計表と明治15年(1882年)より発行されている「京都府統計表」と昭和10年(1935年)に茶業組合中央会議所が発行した「日本茶貿易概観」に掲載された統計表を用いて研究したいと思います。
四つの統計に用いられている数量単位は、「斤」「貫」「ポンド」「トン」と各種の単位が用いられているため、そのままの数字では比較できません。ここでは数量は全て「トン=1000kg」に変換し、金額は全て1kg当たりの「円、銭」に変換しました。
*図をクリックすると新しいウインドウで表が大きく表示されます。
(あ)国内茶業統計…番茶の生産量が思ったより多い。
まず、A~Eの国内の茶業統計について考察します。Aの全国茶生産量は明治14年(1881年)が約2万1千トンで、昭和5年(1930年)が約3万8千トンです。全国茶生産量の内、Bの煎茶生産量は明治25年(1892年)頃までは約50%台で、それ以降に60%台、70%台と増加していったのが分かります。
Dの番茶の生産量は明治38年(1905年)頃まで約30%台と私が思っていたより多量の番茶が生産されていたのが分かります。又、煎茶の生産量が1万トンから3万トンへ、時代とともに増加していくのに対して、番茶の生産量は明治14年(1881年)から昭和5年(1930年)までの約50年間約8千5百トン内外で、ほぼ一定だった事が分かります。このころの摘採は全て手摘みなので、現在の私たちが知っている刈り直し番茶ではありません。
茶業統計で調査されている茶種は煎茶と番茶の外に玉露、碾茶、紅茶、ウーロン茶、釜炒茶、玉緑茶がありますが、それらは煎茶、番茶に較べて非常に少量です。国内生産価格(1kg当たり)については、明治16年(1883年)以前の資料がありません。
明治16年は京都の煎茶価格、明治18年より明治33年は静岡の煎茶価格、明治38年以降は全国の煎茶価格を使用しています。明治16年より明治33年まではほぼ30銭台であまり変化はありません。
日露戦争(1904~1905年)以降に50銭台に跳ね上がります。日露戦争以降の物価高騰、人件費高騰、人手不足の影響が茶価に現れています。静岡に於て粗揉機の導入が急激に進み、茶製造の機械化が不可避になった大きな原因がここにあります。
つぎに茶価に大きな影響を与えたのは第1次世界大戦(1914~1918年)です。第1次世界大戦中の大正6年に日本の輸出は3万トンを超え、過去最高を記録します。茶であれば何でも売れたため、日本は下級茶を増産し米国に売り込みました。
この時に粗揉機だけではなく、揉捻機、精揉機の導入が進み、全機械製の製茶が増加しました。日本(特に静岡)における製茶の機械化を進めたのは、第1次世界大戦中の好景気が大きな要因になっています。
第1次世界大戦が終結すると、米国市場での日本の緑茶は印度、錫蘭の紅茶に敗れ、輸出数量が3分の1に激減します。
茶価は大戦以降1円以上に高騰しました。静岡、三重は、海外輸出できずに余った緑茶を国内で販売しようと、国内市場の開拓に乗り出しました。静岡、三重が本格的に国内販売に力を入れ出したのは、約100年前と云う事になります。
番茶の生産価格は明治33年以降の全国統計があります。明治16年(1883年)に京都府統計がありますが、番茶価格は2銭で煎茶価格の21分の1で低すぎるように思います。明治33年以降の番茶価格は煎茶価格の約4分の1か約5分の1で、この価格が実態に近いと思われます。
(い)輸出数量…日本で生産された茶の約7割、8割が輸出されていました。海外輸出された緑茶は純粋の煎茶ではなく、煎茶と番茶の混合茶でした。
次にF~Jの輸出統計を国内生産統計と関連づけて考察します。第1次世界大戦終結まで、日本の全国茶生産量の約70%~90%が海外に輸出されていました。私はこれまで日本全国で製造された煎茶が海外に輸出されていたと考えていました。釜茶(パンファイヤー)も籠茶(バスケットファイヤー)も全部原料は煎茶だと考えていました。しかし、この統計表を見ると、真実はそうではない事が判明します。
Hの緑茶数量を見て見ましょう。茶業組合中央会議所の「日本茶輸出歴年品種別統計表」を見ると、輸出茶種は数量の多い方から、緑茶(煎茶ではない)、粉茶、番茶、玉茶、紅茶、磚茶となっています。そして、輸出数量の約85%が緑茶です。
表のB日本の煎茶生産数量とHの輸出緑茶数量を較べてみましょう。明治11年から明治25年まで、日本の煎茶生産数量よりも緑茶の輸出数量の方が上回っている事が分かります。明治18年(1885年)を例にとると、日本国内の煎茶生産量は10、605トンであるのに、緑茶輸出は16,091トンになっています。煎茶だけを輸出したのでは数量が足りないのです。5486トン(34%)も不足です。
もう一つ、煎茶だけが輸出されていたとすれば信じられない資料があります。それはCの煎茶生産価格とGの輸出価格の比較です。特に明治16年から明治28年まで、明治18年をのぞいて輸出価格の方が生産価格より低いのです。こんなことはあり得ません。また、輸出価格の方が高い時でも、生産価格は輸出価格の約80%内外です。こんな低い利益率で経営が成り立つはずはありません。
この数量と価格の二つを考察すると、海外輸出された緑茶は、日本で生産された煎茶が単品で再製加工されたものでは無く、煎茶に番茶を混合(ミックス)したものが輸出されていたと考えなければ理解できないという事が判明します。
煎茶価格の約4分の1や約5分の1の価格の番茶を混合することによって、利益を生み出していたことになります。籠茶(バスケ)の再製加工では、形状をあまり細かく切断することが無かったので、籠茶に番茶を混合するのは形状的に不可能だと思われます。釜茶(パン)の再製加工で、荒茶を非常に細かい形状に加工したのは、煎茶と番茶を混合しても形状が分からないほどに細かい形状にする必要があったためだと考えられます。
釜茶で着色がおこなわれたのも、煎茶だけでも全国の製茶の形状が様々だったことに加えて、この煎茶と番茶の混合を分からなくするためだとも考えられます。