精揉機の魅力(4-2)

表2.明治18年茶業一覧表 「中央茶業組合本部報告 第34号」(明治20年、1887年)
「明治18年度(1885年)各府県茶業一覧表」…一人当たりの平均反別は2反以下です。

 

明治18年(1885年)の茶業統計です。茶園面積は現在の9割ですが、生産量が約4割です。それは反当りの生産量が53.8kgと現在の約200kgの約25%しかないことによります。一番茶、二番茶、三番茶、所によれば四番茶を加えて53.8kgですから一茶期に一反で20kgしか生産できなかった事が分かります。また、一人当たりの茶園面積が全国平均で1.5反、多い県でも4.1反ですから、茶業専業の農家は殆ど存在しなかった事が分かります。
全国生産量を組合員人数で割ると、一人当たりの生産量は約81kgです。明治の茶業はほぼ農家の副業であったと云えます。(大阪府の生産量が異常に多いのは奈良も大阪府だったことによります。福岡県の反別1553町の内1253町は天然園です。)


明治(明治16年~明治44年)の府県別番茶生産量…明治には番茶生産県が存在した。

表3(桑原作成)

 

表3は明治16年より明治44年の府県別番茶生産量で、29年間の平均生産量のベストテンです。
明治18年度の煎茶と番茶の生産量を比較しますと、京都、三重、熊本、和歌山は煎茶の生産量が番茶より多く、山口、岐阜、兵庫、高知、広島、岡山は番茶の生産量が煎茶よりも多い事が分かります。特に広島県は煎茶11tに対して番茶289t、山口県は煎茶44tに対して番茶354t、高知県は煎茶84tに対して番茶320tと圧倒的に番茶生産量が多く、茶生産量の8割以上が番茶である事が分かります。ちなみに静岡県は煎茶2224tに対して番茶は279tで、番茶は11%に過ぎません。明治時代には9割が煎茶生産の府県と9割以上が番茶生産の府県が存在したと云う事を認識しておく事が大切です。

(19)「嗜好から見た全国の番茶」桑原次郎右衛門「茶業界」第23巻第1号(昭和3年、1928年)には、「次は伊予松山を中心にして広島、山口及高知の西部にかけての番茶は、釜炒日干、及蒸葉日干製茶系のもので、製法は泉州の手繰茶風(タクリ)であるが、火の強さや、味が大分辺の釜炒茶に近いもので、製造に依る火香は九州一帯産より稍々低いけれども、茶味が強く水色に力があるので、昔は九州日干と共に相当輸出煎茶に利用されたものである。」と書かれています。中国、四国地方の釜炒日干、蒸葉日干製の番茶は九州の日干番茶とともに輸出煎茶に相当利用されていたことが書かれています。


「茶業統計」のまとめ

① 明治、大正期の製茶の内、番茶の占める割合が20%から40%と思っていたよりも多量です。
② 国内生産量の平均約75%が輸出されています。
③ 国内の煎茶生産量より輸出緑茶数量の方が多い年が何年もある事と、国内の煎茶価格の方が輸出価格より高価格な都市がある事より、輸出緑茶は国内の煎茶と番茶の混合物であった事が判明します。国内番茶も輸出品でありました。
④ 全国の茶生産者の平均反別は1.5反です。茶専業農家はゼロですべて兼業です。
⑤ 1反当たりの茶生産量は53.8kgと現在の約4分の1です。
⑥ 番茶生産県の山口、岐阜、兵庫、高知、広島、岡山は煎茶の生産量よりも番茶の生産量の方が多く、番茶の多くは輸出緑茶に混合されていました。

5月号では何故海外輸出製茶にとって堅細長伸の形状が必要になったのかを「消費地米国における日本茶」に焦点を当てて調べて見ましょう。


資料

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「茶業界」誌第6巻(明治44年、1911年)に掲載された「ケーエム式製茶仕上機」(精揉機)の広告です。これまで粗揉機、揉捻機の広告はあったのですが、精揉機の広告はこの明治44年(1911年)が最初です。
精揉機は明治27年頃から望月發太郎、臼井喜市郎等によって研究されてきましたが生産家に実用される精揉機はありませんでした。明治44年に由比町の望月恵吉が考案したケイエム式(恵吉望月)精揉機が実用機第一号です。ケイエム式に続き臼井式、栗田式、望月式、高林式、八木式等が続出しました。ケイエム式は由比町の有限責任由比町信用購買販売生産組合が製造販売しています。明治29年(1886年)、望月発太郎の特許より25年間かかって精揉機の実用機が出来たことになります。


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