精揉機の魅力(5-1)

1月号は「永谷宗円」「青製」「木枠助炭」、2月号は「手揉手法の進展」、3月号は「全国各地の製茶」、4月号は「茶業統計」について調べました。5月号は「米国における日本茶」「明治時代の製茶機械の発展」を調べます。


「8」「米国における日本茶」

「7」の茶業統計で輸出製茶の「緑茶」は、純粋な煎茶ではなく、煎茶と番茶の混合茶であったと推考できる事が判明しました。次に海外輸出製茶にとって堅細長伸の形状が必要になった理由を、その消費地である米国で調べて見ましょう。

(20)「日本茶貿易概観」には、「文久2年(1862年)には横浜の外商等居留地内に製茶再煉所を設け、支那の熟練工を雇い再火並びに着色に当たらしめた。この着色には紺青を用い「パンファイヤード」として市場に現れ、それから十年後に「サン、ドライド」の出で来たった頃には、このパンファイヤードを「レギュラー」とも呼んでいた。当時の日本茶業者は殆んど全てが原茶のまま売込んだもので、着色の如き特別の加工技術は専ら支那人の秘密法として、何れの再煉所もこれを公開せず。」と書かれています。
文久2年(1862年)以降、横浜の外商は製茶再煉所を設け、中国人(清国人)を雇い再製、火入、着色を行います。日本人は原茶を売り込むだけです。着色などの加工技術は支那人の秘密法で、日本人は再製加工技術、着色技術を知りませんでした。

(21)主香居士は「日米両国人製茶嗜好の比較」「茶業雑誌」第19号(明治28年、1895年)で次のように書いています。
「日米両国人が茶を嗜好するの状を例して云わんか、煎茶に於いては、一、日本人は玉露煎茶の如き清香佳味の茶を上等とし、焙じたる茶を次品とすれども、米人は玉露煎茶を青臭なりとして飲むに苦しむ状あり、却って普通煎茶の焙茶を上等となす。二、日本人は香味を重すれども、米人は重きを香気に置きて、味は稍や深く関係せず。三、日本人は形に頓着せざれども、米人は出来方美麗なるものを喜ぶ。四、日本人は茶の水色を重せざれども、米人は大いに清澄黄碧なるを好む。五、日本人は茶の色に関係せざれども、米人は緑輝ある物の外は、着色せざれば之を好まず。之を要するに、内国人は所謂飲み味佳なる物を択び、形状に重きを置かざれば、自然内地用製茶と外国用製茶との相違区別あるなし。然れども、之を製造するものは利益の多少に鑑み、外国向製茶に逐はれて自然形状等を吟味するの余り、遂に二者同一ならざらんとするの傾向を生じたり。今や玉露の如きもその形は名に背きて、宣針露(しんろ)と称するの可なるに至らんとす。又従来内地に於いて著名なりし煎茶假令は信楽安倍狭山茶等も亦伸長堅実の性を帯び来られんとするものの如し。」
日本人と米国人の茶の嗜好の違いが分かります。「一、日本人は玉露煎茶の清香佳味の茶を上等として、焙じた茶を次品としているが、米人は玉露煎茶を青臭なりとして飲むに苦しむ状あり、却って普通煎茶の焙茶を上等となす。二、日本人は香味を重すれども、米人は重きを香気に置きて、味は稍や深く関係せず。三、日本人は形に頓着せざれども、米人は出来方美麗なるものを喜ぶ。四、日本人は茶の水色を重せざれども、米人は大いに清澄黄碧なるを好む。五、日本人は茶の色に関係せざれども、米人は緑輝ある物の外は、着色せざれば之を好まず。」この当時、日本人は形状に重きを置かず、飲み味の佳なる茶を択んでいたが、米国人の嗜好が形状、色沢、香気に重きを置くものであったため、又、圧倒的に輸出向製茶の数量が多かったため、自然と内地用製茶も外国向製茶と同じく形状重視の方向に向かった。そのために、玉露も針のような形状にされ、国内向け煎茶も伸長堅実にさせられた。針のような形状や伸長堅実と云う事は、それまでより香や味が悪くなっているということです。国内向製茶と輸出向製茶がなぜ区別して生産されなかったのか非常に不思議ですが、茶の最大産地であり中心地であった静岡の茶業が海外輸出向け製茶中心だったため、また日本政府、農林省が海外輸出を推進したためだと考察されます。しかし、紅茶、烏龍茶のように香気が高ければ、伸長性のない形状不揃いの茶でも米国人は受け入れています。それが不思議です。明治28年にこれを書いた「主香居士」というペンネームの人物が誰であるのかは分かりませんが、相当の人物であるのは確かです。

(22)松本君平は「海外製茶貿易意見」 (明治28年、1895年)で次のように書いています。
「米国の市場に注意し、米人の嗜好を探るは一日も茶業者に欠く可からざるなり。」「茶は欧米人の清涼的飲料物にして、且欧米人が平素茶と同一の目的、同一の方法、同一の快楽を得んが為に、使用せらるる清涼的飲料物は、其数甚だ多く、例えばコーヒーの如く、チョコレートの如き、或いはコーカの如き是なり。即ち是を経済学上称して代用物という。……茶は欧米人が愛用する清涼的飲料物の一小部を有するに過ぎざるが故に、他の茶と同一目的に使用せらるる、コーカ、コーヒー、チョコレート等の使用の盛衰は、茶の消費の盛衰を来す所以たるを識らざる可からざるなり。」「明治27年、米国に輸入されたコーヒーは8000万ドルで茶は1300万ドルです。茶の内、日本茶は296万ドルでコーヒーの27分の1以下です。米国における日本茶の消費地の第1は桑港付近、第2はシカゴ付近、第3は紐育付近です。……日本茶は米国消費社会至る所に使用せらるると想像するは、誤想も亦甚だしきものと云うべし。」「日本の茶業者が自家の生産せる茶の真価真味を消費者に識らしむることを務めず、利害痛痒を感ずること薄き、外商の掌中に消費の方法を一任し去って顧みざる結果は、……日本茶の聲価は益々墜落して、販路を蹂躙せらるるも如何ともす可からざるに至る。」「米国における消費者は、日本茶の真風味を解するものなしと云うも不可なし。此の一事を以て尚且つ、如何に日本茶の消費社会に於ける基礎の薄弱なるを示すに余りあるべし。容易に他の茶の代用物の為に消費界より駆逐せらるるの怖れあり。」
明治28年(1895年)当時、米国に於いての日本茶はコーヒーの27分の1で、米国の飲料のごく一部にしか過ぎません。日本茶が米国社会のいたるところで使用されていると想像するのは、甚だしい誤解です。圧倒的に日本茶の宣伝啓蒙が少ない。その為、米国の消費者で日本茶の真の風味を理解しているものはいません。松本君平は将来日本茶が米国より駆逐されるのを明治28年に見抜いています。

(23)日本製茶支配人海野孝三郎は「米国茶況視察談」「茶業雑誌」第33号(明治29年、1896年)で次のように書いています。「米人喫茶法は急須を用いずして、煎茶器乃ち金属の類にて造りたる瓶を用い熱湯ならしめ、相当の緑茶を投じ、分時を経て砂糖及び牛乳を混交して、珈琲用の磁器を用いて飲用す。之れ一般行わるる習慣なり。茲に至りて緑茶の美味を失い、全く飲用法を過つに至れり。亦小売商店に於いては、多くは売茶の取扱上粗漏に流れ、精品も粗品に変化せしめたり。例えば、輸入茶箱の儘蓋を開け空気に曝し、他諸商品の類と共店頭に陳列し、遂に臭気ある果物又は香気ある雑品に触れしめ、所謂移り香の為に製茶固有の香気を失わしめるの欠点と併せて、彼の飲用器の金属瓶を用いて磁器を用いざるより益々緑茶の真味を殺ぎ、夫れ而己ならず牛乳を混交するに至りては、最も緑茶の緑茶たるを失い、真の美味を失わしむるに至り、実に遺憾と称す可きなり。」
安政6年(1859年)に横浜が開港され本格的に日本茶が輸出されだしましたが、その貿易は「居留地貿易」でした。日本人は横浜の外商に日本茶の荒茶を売り込むだけで、火入、乾燥、着色、箱詰などの再製や輸出業務、米国での流通、販売、宣伝などはすべて外国商社まかせでした。海野孝三郎は初めて米国を視察し、消費地米国の実態を知り、三つの改善策を挙げています。第一は新聞雑誌に広告し、小売茶の扱い方を指導すること。第二に日本茶の喫茶法を宣伝すること。第三に牛乳、砂糖の混交をやめさせることです。しかし、日本茶輸入以来30数年間にもわたり日本茶の喫茶法を教えられず、日本茶用の急須も販売されず、牛乳、砂糖の混交を習慣としてきた米国の消費者を教育することは至難でした。輸出製茶の形状が伸長堅実にされた最大の原因は、米国人の牛乳、砂糖の混交による日本緑茶の飲用法にあります。米国では日本人が好む美味しい煎茶は受け入れられず、苦渋みの強い茶の形状の美しい煎茶が好まれました。そのために、輸出向け製茶は茶葉を強く揉む揉み方である、床揉み、練揉み、転繰(デングリ)、炉縁揉み、板摺を発達させました。これらの揉み方は揉切のように茶葉がバラバラに揉まれる揉み方では無くて、茶葉を一纏めにして体重を茶葉にかけて強く細胞壁を壊す揉み方です。現在の機械製茶に当てはめると、葉打機、粗揉機、中揉機は茶葉がバラバラで揉まれていく工程です。揉捻機、精揉機は茶葉が一纏めにされ力を加えて強く揉む工程です。もし、海外輸出が無かったならば、床揉み、練揉み、転繰、炉縁揉み、板摺の手揉工程は発達せず、揉捻機、精揉機も開発されなかったかも知れないと私は考えています。                                                


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