「9」「明治時代の製茶機械の発展」
次に明治時代の製茶機械の発展を調べます。
(24)「中央茶業組合本部報告 第31号」(明治19年、1886年)
「第二回製茶器械広告」として、高林謙三の製茶五器全図が掲載されています。第一号は「蒸器械」で手廻し攪拌式の蒸器です。広告によれば、一回生葉四百目を入れ、一日で二百貫目(750kg)を蒸すことが出来、定価は四円です。第二号は「乾葉器通称葉打器械」で蒸葉の水分を乾かします。之も手廻し式です。雨露の葉を乾かすのにも便利なりと説明されています。第三号は「揉捻器」です。「蒸葉を麻の袋へ入れ口を結び箱の中に入れ」と袋揉みの機械です。大器は一日百貫目(375kg)を揉捻することが出来、定価は八円です。第四号は「焙茶器」です。「焙茶器」は手廻し式乾燥機で大器は一回三貫目(11.25kg)、一日で上火三十貫目(112.5kg)、並火四十貫目(150kg)を乾燥することが出来ます。定価は七円です。第五号は「改良扇風器」です。名前は扇風器ですが実態は手廻し式唐箕です。
(25)茶業界主筆高木来喜は「精揉機の応用如何」「茶業界」第7巻第11号(明治45年、1912年)で次のように述べています。
「更に従来機械製と云うも其使用程度は未だ全行程の半ばに過ぎずして、約一時間は手揉によらざるべからざるの不便あり。茲に於いて殊に精揉機の出現は所謂時代の要求にして斯界の期待せる所なり。此の要求と期待とによりて生まれ出でたる者、ケーエム式、望月式、臼井式、栗田式、四三式、松下式、何れも公開実験を行わんとしつつあり。これ等精揉機の発明によりて初めて人口をも要せず全部機械にて製造するを得ることとなる。…最上の製茶は別問題なれども、普通の製茶は機械力に拠るを便宜とするは事実なり。吾人は是が一層の発達を待望すると同時に、其使用者たるもの亦手揉の心持を以て之に対し、敢て活用の道を誤まらざらんことを勧説す。」
明治45年(1912年)には、ケーエム式、望月式、臼井式、栗田式、四三式、松下式の六種の精揉機がありました。高木は、精揉機が一層の発達をする事を待望するが、精揉機の活用の道を誤らないように、「手揉の心持を以て機械を使用しましょう。」と勧説しています。
(26)スマ生(鈴木孫太郎)は「茶事雑録」「茶業界」第7巻第11号(明治45年、1912年)で次のように述べています。
「精揉機に就いて…精揉機に於ける欠点は、唯其構造が困難だと云うのみでなく、之に投入するには一定の含水量と云うのがあって、若し水切れの悪しき場合には揉葉が団子の様に固まって始末に行かぬ。それだから、粗揉機で揉んだ茶を直ちに投入することが出来なかったから、どうしても手揉で撚切をなし、少し黒っぽくなった頃に取り入れなくてはならなかった。然るに、揉捻機があって粗揉機から取り出したものを揉捻し其火不均(ひむら)を除き、芯の水を絞り出させ、更に粗揉機に入れて程よき程度まで乾燥を為すこととなってから、茶の撚れ形を損せずして適度に水分を減せしむる様になり、精揉機の真価を発揮せしむるに至ったのである。」
明治45年(1912年)ころの製茶順序は、それまでの粗揉機⇒揉切⇒精揉機から粗揉機⇒揉捻機⇒粗揉機⇒精揉機になりました。
(27)柴田雄七は「手揉み製茶から機械製茶へ」(平成12年、2000年)で次のように述べています。
「明治29年(1896)、政府は東京西ヶ原に製茶試験所を設け製茶に関する試験研究を始めました。翌30年同所に、高林の茶葉揉乾機(粗揉機)を設置し、手揉み技術者との公開比較試験を行い機械が好成績をあげました。更に改良を加えて特許の出願をし、明治31年(1898)12月22日、茶葉粗揉機が専売特許第3301号を取得しました。明治31年(1898)9月小笠郡茶業組合は、高林式粗揉機1台を購入し
実地試験を開催したところ、好成績で大きな反響がありました。松下幸作はいち早くこの粗揉機に着目して、高林と機械の販売ならびに製造に関する契約を結び、松下工場を創立して高林式粗揉機を売り出しました。これにより製茶機械も実用化への第一歩を踏みだしました。明治32年(1899)には望月発太郎発明の葉打機、揉捻機、揉燥器、精製器等の使用試験が行はれ、翌33年には、臼井喜市郎発明の精揉機について試験を実施し、製茶機械の啓蒙と普及を図りました。明治38年(1905)2月、会議所は前年来の不況脱出と輸出向改良模範茶の製造方針策定のため、農商務省技師大林雄也氏を招請し、県内各地の茶業について調査研究を依頼しました。大林は茶の栽培から製造全般にわたって茶業振興策を講述せられ、明治38年式手揉み製法を発表して製茶法の改良と統一を提案しました。…明治43年(1910)、静岡県の粗揉機普及率は49%で約半分が粗揉機を使用していますが、精揉機の普及率は1%とほとんど普及していませんでした。」
明治末の静岡において、粗揉機の普及率は約50%に達しましたが、精揉機はほとんど普及していませんでした。
「8」「米国における日本茶」「9」「明治時代の製茶機械の発展」のまとめ
① 日本茶の海外輸出は居留地貿易で、日本人の直輸出は数%に過ぎません。
② 米国人は、一、玉露煎茶を青臭なりとして好まず、普通煎茶の焙茶を上等とする。二、香気に重きを置いて、味にはこだわらない。三、形の美しい茶を好む。四、水色が清澄黄碧な茶を好む。五、緑輝ある物の外は、着色しないと之を好まない。
③ 日本人と米国人の茶の嗜好の違いにより、それまで揉切製が主だった日本の手揉製茶は、明治18、19年以降、米国人向けの製茶手法に置き換わっていきます。日本人向けの美味しいお茶を揉む方法では無く、米国人向けの形の美しいお茶を経済的に揉む方法です。
④ 米国における日本茶はコーヒーの27分の1です。
⑤ 粗揉機は明治40年頃より急激に普及を始め、明治45年には約50%の普及率になります。