(13)「茶業界」第14巻(大正8年、1919年)に掲載された「八木式製茶機械」の広告です。粗揉機→揉捻機→再乾機→精揉機(仕上機)と現在とほぼ同じ製茶機械が揃いました。八木式精揉機は小手揉装置です。
(14)「茶業界」第15巻(大正9年、1920年)に掲載された「橋本式製茶精揉機」の広告です。揉捻盤はアルミニューム合金鋳物です。大正10年(1921年)の静岡県精揉機3657台中368台(約10%)が橋本式です。橋本式精揉機は大手揉です。
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(15)「茶業界」第16巻(大正10年、1921)に掲載された「茶業番付」です。勧進元は静岡県茶業組合聯合会議所です。発展方の横綱は「ミル芽摘み」で以下、「末を思う茶業者」「新しい葉の製造」「蒸しを充分」「能力以内の製造」「こやし充分の生葉」「性を見て買う商人」と続きます。滅亡方の横綱は「悪い茶買いの商人」で以下、「近慾深い茶業者」「硬葉取り」「こやしの足らぬ生葉」「能力以上の製造」「生葉を長く貯える」「揉捻機の使いすぎ」と続きます。100年前も今も同じです。「末を思う茶業者」「性を見て買う商人」になりましょう。
(16)「茶業界」第19巻(大正13年、1924年)に掲載された「原崎式製茶機」の広告です。
富士製茶の原崎源作が茶業40年間の経験を基礎に3年間研究、改造、試験を重ねて発明した機械です。この機械一台で、粗揉より精製まで製造できて、品質は手揉製と同様であると宣伝しています。もし、この機械が現在まで残っているなら、一度製茶してみたいと思います。この一台式製茶機械が普及しなかった理由は、内質は出来ても外観が出来なかったからだと思います。第1次世界大戦後、輸出が激減しても外観重視の製茶から日本は抜けきれませんでした。
(17)「茶業界」誌第22巻(昭和2年、1927年)に掲載された「野呂式製茶機械」の初めての広告です。野呂式製茶機械は三重県の野呂米三郎が蒸熱から乾燥まで一台で行うという新しい構想のもとに大正8年に発明された一台式製茶機械です。経費は節減できたが製茶品質が悪く、当時丸よれと濃緑色とを失うようでは困ると批判され、その着想は評価されたが、広くは普及しませんでした。