手揉み製茶の歴史 8【明治後期Ⅲ】

(58)「製茶偶感」臥牛生「茶業界」第5巻第3号(明治43年、1910年)
「買う者の罪や最も大なり。」は大正解だと思います。鉄焙炉は明治9年に内務省勧業寮製茶掛が創造しました。静岡で使われだしたのは明治15年頃からです。明治25年頃に流行し、製茶が粗製になります。「茶業界」を読んでいて思うのですが、静岡では生産家と商人の対立が多いようです。しかし、京都では生産家と商人の対立はほとんど聞いたことがありません。その理由は、京都の商人はほとんどが茶生産家を兼務しています。と云うより、もともと茶生産家が茶問屋を始めたと云う方が判り易いでしょう。ですから京都の茶商の多くは生産家でもあるのです。京都の茶業青年団が生産家と業者一体の組織になっている理由の一つはこれです。

 

(59)「製茶品質の統一」杉山彦三郎「茶業界」第5巻第7号(明治43年、1910年)
杉山彦三郎は、理想的製茶法は宇治製を以て第一とするが、生産費が高く製品が高価になるので海外輸出に向かない。故に大体を宇治式に準じた謂わば軽便宇治式によることが最も必要で、静岡の方式は軽便宇治式とも称すべき製茶法であると云っています。

 

(60)「再製着色全廃の気運」瀧 閑村「茶業界」第5巻第8号(明治43年、1910年)
「茶は観るものに非ずして飲むものなり。形状、色沢に重きを置くは要するに幼稚の時代なり。」と茶業界主筆は書きましたが、現実はこの方向には動きませんでした。

 

(61)「関西紀行…滋賀県政所」鈴木孫太郎、岩田文吉「茶業界」第6巻第2号(明治44年、1911年)
明治44年の政所では、政所在来の製法=揉切製を行っています。しかい、近頃形状を伸ばすデングリ、板コスリなどが取り入れられ、政所茶の名を堕しつつある。

 

(62)「関西紀行…滋賀県朝宮」鈴木孫太郎、岩田文吉「茶業界」第6巻第3号(明治44年、1911年)
朝宮は揉切製法を行っていますが、一部に下揉にコロカシを行う生産家も出てきました。コロカシ(回転揉、横マクリ)は茶の風味を損します。

 

(63)「関西紀行…京都府池の尾」鈴木孫太郎、岩田文吉「茶業界」第6巻第5号(明治44年、1911年)
昔は揉切一方だったが、近来は揉切は骨が折れる為職人が之を厭い、今では板ゴスリなどなすもの多く、楽をして形を造ると云う傾になったと池の尾にまで板コスリなどが入り、楽をして形を造る製法になっています。

 

(64)「茶業小言…商人に対する希望」潮山迂人(鈴木孫太郎)「茶業界」第6巻第8号(明治44年、1911年)
茶業の改良は商人の買い方で容易に行われます。しかし、商人の買い方を変えるのは難しい。現在にも通じます。

 

(65)「茶業小言…生産家に対する希望」潮山迂人(鈴木孫太郎)「茶業界」第6巻第8号(明治44年、1911年)
日本煎茶の特色は揉切によって発揮されます。転繰は揉切の転化したものです。出来るだけ揉切に重きを置くことが大切です。

 

(66)「着色茶と余が決心…着色茶製造者は茶業界の大罪人なり」茶業組合中央会議所会頭 大谷嘉兵衛「茶業界」第7巻第1号(明治45年、1912年)
大谷嘉兵衛は内地需要茶までひそかに着色されていたことに愕然としています。

 

(67)「京都府茶業視察録」牧之原茶業部 浅羽光次郎「茶業界」第7巻第4号(明治45年、1912年)
宇治に於いて玉露製がさかんとなったのは明治初年です。煎茶製造は純揉切製ですが、床揉を交えています。明治20年より宇治に回転揉を行う様になりました。

 

(68)「滋賀県茶業視察録」牧之原茶業部 浅羽光次郎「茶業界」第7巻第4号(明治45年、1912年)
明治45年(1912年)の朝宮の手揉は、露切、揉切、床揉、玉解、揉切です。一番茶の中半過ぎより回転揉が入ります。政所には回転揉を交える様になりました。

 

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