1、 明治時代に混合が必要だった訳

令和3年(2021年)現在、日本茶のごく一部では「シングルオリジン」と銘打って一人の生産家の一つの茶畑で製造したお茶を単体で販売するものも存在しますが、その他ほとんどすべてのお茶は合組(ブレンド)又は混合(ミックス)されて販売されています。

明治40年代から大正時代にかけて製茶は手揉製茶から機械製茶に移行しました。
手揉製茶時代の製茶法は統一された製茶法はなく、静岡だけでも40流派程の手揉流派があり、全国各地で様々な揉み方をしていたために製茶の形状色沢内質は種々雑多でした。
手揉製茶では、普通一人の焙炉師(茶を揉む人)が一貫目(3.75kg)の蒸した生葉を約2時間30分から3時間かけて焙炉の上で手で製茶しました。天下一製法では約5時間以上かかりました。
焙炉師は通常一日に5回茶を揉みます。15時間労働です。よって、焙炉師一人は一日に五貫目(18.75kg)の生葉を揉んで、一貫目(3.75kg)の荒茶を製造していたことになります。
焙炉が2,3炉の個人農家の一日の生産量は10kgに満たない量です。10人の焙炉師を雇う大農家でも、一日の荒茶生産量は40kg程度ですし、焙炉師一人一人の揉む技術が違うため、同じ生葉でも同一の外観や品質の製茶は得られませんでした。
多数の焙炉師が働く焙炉場では、中揚げ迄の力のいる工程(シナ揉み)を若手の焙炉師(一番師)が行い、中揚げ以降の主に形を造る工程(仕上揉み)を技量の優れたベテランの焙炉師(二番師)が揉みました。
製茶の内質はほぼ中揚げ迄の工程で決まるので、本来は技術の優れたベテランがシナ揉みを行う方が良いのですが、針のような細い真直ぐな形状が要求された海外輸出用手揉製茶では仕上揉み(二番師)が重視されベテランが仕上揉みを行いました。

茶生産地付近の地方仲買茶商は多くの茶生産家の荒茶を買い集め、売り込み商人に販売します。売り込み商人は仲買より仕入れた荒茶を横浜、神戸の居留地外商に販売しました。
海外輸出茶の一ロットは600kg、1.2トン、2.4トンと大ロットです。一ロット600kgのお茶には750kgの荒茶が必要です。(居留地のお茶場で再製火入着色が行われました。その時の歩止まりは約80%でした。)
750kgの荒茶には約200人の生産家の荒茶が混合されていることになります。居留地での再製加工が必要だった理由は、第1に荒茶の乾燥度合いが現在より甘かった事です。現在の荒茶の水分率はおよそ5~6%です。
明治時代の乾燥は主には隠居焙炉が使用されましたが、焙炉がない場合は籠焙炉を使うことや、茶の価格が安くて炭を使用しては採算が合わない場合は日干(天日干し)で乾燥されましたので、水分量が10%前後と多く、再製で火入乾燥しなければ変質しやすいお茶だったことが原因です。
第2は、手揉の製茶の外観(形状と色沢)が種々雑多で、混合しただけでは同一茶にならなかったからでした。
居留地外商のお茶場には数百の釜が設置され、その内の八割の釜は炭火で乾燥する火釜で、残りの二割の釜は冷釜と云って熱源はありません。
荒茶を細かく切断し着色することによって、同一形状、同一色沢の大ロットの茶を作りだすことが出来ました。

2、合組とは

しかし、明治時代に居留地の外商で行われた大ロットを造る行為は合組ではありません。
合組とは何種類かの茶を組み合わせて、より価値の高い茶を配合する行為です。
たとえば、1.0の価値のある三種類の茶A,B,Cを配合する場合に、通常は(1.0+1.0+1.0)÷3=1.0になるのですが、上手な配合をすると(1.0+1.0+1.0)÷3が1.2や1.5にすることが出来ます。この上手な配合の事を合組(ごうぐみ)と云います。
季節によって、どのような茶(素材)を何種類、どのような比率で配合するかを考えるのが合組です。
何も考えないで、何の目的もなく、数量を増加するために何種類かのお茶を配合するのはミックス(混合)です。
下手な混合(ミックス)をした場合、(1.0+1.0+1.0)÷3=が0.9や0.8になる可能性もあると云う事です。

 


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